α Cap
吐き出した息が、白い水蒸気になって空へ昇っていった。
その先を目で追うと、満天の星空があった。
天の川が、白いベールのように、中空にかかっている。
北斗が指し示す天の極を軸にして、星々は音もなく夜空をめぐる。
そうして、いくばくかの時が過ぎ。
僕の左側から、しゅっしゅっという音がした。
そこには、膝の上に広げたスケッチブックに、無心で色鉛筆を走らせる少女がいた。星座の絵を仕上げた彼女は、鉛筆を置いて星を仰ぎ見た。
僕の右側から、ぱしゃりという音がした。
そこには、大きな三脚を立てて、一眼レフカメラを星空に向ける少女がいた。シャッターを切った彼女は、レンズの先にある星に手を伸ばした。
僕は上体を起こして、天の頂を見上げた。
天の川を囲む三つの明るい星が、おおきな三角形のアステリズムを描いているのが見える。
それはいつでも、僕たちとともにあった星々だ。
けれど、僕も、そして彼女たちも知っている。
悠久の時の流れの中で、それらはすこしずつ、形を変えていくことを。
そう、だからこそ。
僕と、彼女たちは……。
『あの日、星空の下で -Star Observation Society-』
「じゃあ、次の部長は……」
そう言いながら、卒業を三か月後に控えた先輩は、僕の顔を見た。
「星河、おまえだな」
南向きの大きな窓から、師走の夕陽が遠慮がちに差し込んでいた。
その淡い陽光は、多目的デスクの白い天板をオレンジに染め、向かい側に座る二人の女子生徒の顔に、柔らかな陰影を浮かび上がらせていた。
ひとりは、月刊雑誌『天文ガイド』の最新号を読みふけるクラスメイトで、もうひとりは、一眼レフカメラの埃をブロアでシュコシュコと吹き飛ばしている同学年の幼馴染だ。
僕を含めて四人、いや、さっき引退を表明した先輩を除くと、この三人が県立朝陽北高校天文研究部――通称、Star Observation Societyの全部員ということになる。
少子高齢化のせいで、生徒数が減少の一途をたどっている朝陽北高校にあっても、ここまで部員が少ないクラブは他にない。
とはいえ、それは天文研究部の伝統のようなもので、ソサエティなんていう同好会めいた愛称も、何代か前の女子部長のブラックユーモアの産物だと聞いたことがある。
そんな状況だから、先輩の指名は、順当なものではあった。
けれど……。
――部長か。この僕が……。
入部してから、一年と八か月。
参考図書や雑誌が詰まった書架、望遠鏡などの観測機器を収めたロッカー、壁一面にはめ込まれた大きなホワイトボード。通いなれた部室が、使いなれた備品が、いまさらのようにずしりとした重みでのしかかってきた。
そして、二人の部員の存在が引き起こす、目には見えない波動が、僕に押し寄せてくるのを感じた。
それらを引き受けることは、正直に言って、僕の柄ではなかった。
できることなら、断りたかった。
ただ、そうすると、彼女たちのどちらかにお鉢が回るということになる。
どうしようかと答えあぐねていると、幼馴染と目が合った。
彼女はちいさくため息をつくと、次の瞬間には、元気よく立ち上がって挙手をした。
「あたし、やりたい!」
ネイビーのブレザーのVゾーンを彩る空色と赤色のレジメンタルネクタイが、身体の動きにつられてくいっと持ち上がり、バーバリーチェックのプリーツスカートの裾がひらりと揺れる。
ショートヘアに縁どられた、愛らしいという表現が似合う丸い顔の中で、存在感を放つ大きな瞳がきらりと光り、その手の中でブロアがシュコッと音を立てて空気を吐き出した。
それは願ってもない申し出だったが、僕は首を横に振った。
「綾乃は、さっき部員になったばかりだし、写真部の部長だろ。それに放送部もやってるんだから、さすがに無理だよ」
家がすぐ近くで幼馴染の綾乃は、できないことはないのではないかというくらい、優秀な女の子だった。とはいえ、これはさすがに無理があると思った。もし天文研究部の部長を引き受けさせて、そのせいで写真部や放送部から恨みを買うことにでもなったら、それはそれで困る。
いかにも残念そうな綾乃に「ごめん」と謝っておいて、僕はその隣に座っているクラスメイトに目をやった。
彼女は、右手で雑誌のページをめくりながら、夜間活動申請書と書かれた用紙に、左手に持ったボールペンで器用に文字を書き連ねていた。
予備のボールペンが差し込まれたブレザーの胸ポケットには、赤い太陽と青い三日月をシンボライズしたエンブレムと、ASAHI NORTH HIGHSCHOOLという小ぶりな校名の金文字が刺繍が見えた。
彼女が、雑誌のページからゆっくりと顔を上げる。
赤みがかったミディアムロングの髪が肩口にかかり、白い顔に形良く配置された切れ長の目の中で、すこしうるんだ琥珀色の瞳が僕の姿を映した。
「なに?」
ささやくような声で問われて、僕は口ごもりながら用件を切り出した。
「観月は、どうかなって……」
話しかけられた本人ではなく、綾乃の方が先に「うわぁ」と声を上げた。
「ファーストネームで呼び捨てって……。あたしの他に、智之ちゃんにそんな相手がいるなんて、なんかショックなんだけど」
本気で驚いている綾乃に、僕はとりたてて言い訳も説明もしなかった。
どうせすぐに事情はわかるはずだ。
彼女――観月とは、妙な縁があった。
入学してから、ずっと同じクラスで席も隣だった。おまけに、同じ日に天文研究部に入部して、それから一年と八ヶ月にわたって、事実上二人だけでこのクラブの活動をやっているのだ。
けれど、彼女がなぜ僕なんかと同じクラブに入って、いままで活動を続けているのか、その心中を僕は知らなかった。僕が彼女について知っているのは、左右両手で寸分違わぬ文字や絵画を描けるという、とんでもない特技を持っているということくらいだ。
観月は、唇をわずかに動かしたが、言おうとした言葉を飲み込んだようだった。
そして、琥珀色の瞳を僕に向けて、小声でささやいた。
「私は、星河くんが……」
観月の言葉と同時に、下校を促す十二音のチャイムが、柔らかな音色を校内に響かせた。
まるで、観月の言葉を、最後まで言わせたくなかったかのようだった。
綾乃は、手早くカメラを片付けると、席を立った。
「明後日の観測会のときに決めるってことで、いいよね。じゃあ、あたし帰るから」
すこし早口でそう言い残すと、綾乃はバッグを肩に担いで部室を出て行った。
観月は、書き上げた申請書を脇によけて、活動報告のノートを開いた。
「私、これを提出してから帰るわ。戸締りはやっておくから、星河くんは先に帰って」
チャイムに遮られた言葉の続きが気になったが、僕はそれを問うことはできなかった。
「じゃあ、悪いけど、あとを頼むよ」
申し訳のようにそう答えて、僕は部室を後にした。
ぶあつい金属の扉の外は、北校舎を上下に貫く中央階段の踊り場だ。
上に昇れば大型望遠鏡を格納した観測ドームがあり、下に降りれば専門教室が並ぶ北校舎の四階廊下に出る。
階下の音楽室から、吹奏楽部が演奏する『レット・イット・ビー』が聞こえてきた。
そこには、「帰る」と言って出て行った綾乃が、所在なげに立っていた。
階段の金属製の手すりに身体を預け、窓の向こうに見える南校舎に目を向けている。けれど、眼差しの行方は、そこにないように見えた。
リノリウムの床を転がってきた小さな綿埃が、彼女の上履きにぶつかって進路を変え、手すりの支柱の間から階下にふわりと転落していった。
綾乃は僕に気づくと、大きな瞳を細めてあははと笑った。
「智之ちゃん、一緒に帰ろう」
僕と手を繋いだ綾乃の弾んだ声が、クリーム色のコンクリート壁にうわんと木霊した。