人魚王子
まただ。深海では姉の家臣達と自分に従う家臣達がまた喚いている。
イーヴァルは最近続くこの争いにうんざりしていた。血筋確かな姉と脇腹の息子であるイーヴァル。どっちが海の人魚達の王となるか。イーヴァルが成人しないうちから争っている。
王位なんかどうでもいい、と言葉にできるほど、自分の血に誇りが無いわけではない。だけれども、ならば自分が継ぐ、と言えるほどの勇気も度胸も自信もない。でも周りはどうするんだ、と意見を求めてくる。
数少ない人魚の一族はこの争いで完全に分断されてしまった。父、現王はこの争いが激化してからというもの、全く表に出てこない。口争いで勝利したほうが次の王とでも思って日和見を決め込んでいるのか、それとも……。
思い悩むイーヴァルの頭に、満月の光がほのかに当たる。イーヴァルはいつも人間にも見つからず、深海での喧騒も避けられるこの海の中間の位置にいた。
――そうだ、今日は地表まで行こう。深海の争いが特に煩い日は、地上まで行くに限る――
夜なのを確認して、地上に向かった。人間に近づくなと散々聞かされてはいるが、危険なものに好んで近づくほど僕は愚かではない、と、イーヴァルは心の中で笑っていた。夜にこっそり上がって月を見るだけの遠出は利口なやり方、それが出来る自分も利口者、と思っていた。
海面近くまで上がった頃、やけに波が騒がしいのに気づく。
――なんだ、嵐なのか――
嵐は嫌いだった。月が見えないし、高波は人間でいう強風と同じで泳ぎづらい。唯一の利点は、天気の日よりは危険が減るだろうということ。天気の日でも、夜に海の真ん中にいる人間なんてそうそういないけれど。
――とにかく地上付近まで来たんだから、雷の一つでも見て帰るかな――
一瞬退きかえそうか迷って、そのまま海面まで行こうとしてぎょっとする。
――ニンゲンだ。ニンゲンの少女が落ちてきている――
その少女は水中だというのに、荒波に揉まれながら不思議と緩やかに海に沈んでいく。じっとしているのを見ると死んでいるか失神しているのか。意識がないと分かると安心して少女の側まで寄る。
――傷と痣だらけだ。それになんて細い。暴れないのは、諦めているからか?――
ニンゲンとは関わってはいけない。イーヴァルはその禁を破り、彼女を陸へと引き上げた。
「人魚の目撃情報がある。海の上に顔だけ出して夜空を見たあと、また深海へと戻っていくそうだ」
触媒を手に入れるために人魚と話さなくてはいけない。だがその人魚には会うことすら難しい。数少ない目撃情報を頼りに、海へ出るしかなかった。
サラは深く溜息をついた。どうしてカイはああもホヅミにだけ厳しいのか。自分には普通なのにホヅミにだけは……昨夜もウンディーネから何を聞いた、何を考えたと、暴力こそ振るわなかったが尋問のように、怒鳴りつけるように問い続け、カイもホヅミもろくに寝ていない。ついでに自分も心配で寝れていない。それでも翌日にはこの強行軍。
「何をそんなに急いでいるの? 弟の一族の末裔だからってそこまでするものなの? 何にしろ、カイが本気でホヅミを憎んでいるのは分かるわ」
もう一度深い溜息を吐いて、船に乗り込んでいくホヅミを見る。夜通し怒鳴られ続けていたのに、その足取りは軽い。
「宿屋で働いてた時に見た、深夜勤務はテンション高くなるアレみたいね」
気の毒だとは思う。しかし
「下手にカイに意見して首になったら研究ができなくなる。そして首になった後、私よりいい人間があの子の世話役になるかは分からない。こうするしか、ないのよ」
スウォン村で買い溜めした傷薬や飲み薬をカバンに仕舞い、自身も船に乗り込むサラ。地元の漁師の話では、しばらくは快晴だという。早目に人魚が見つかるといいけれど。
航行していた最初のうちは風もなく絶好の船出日和だった。しかし夜にさしかかろうという頃、雲行きが怪しくなったかと思う間もなく嵐に巻き込まれた。
「何十年に一度の嵐と言っていいわね…! こんな時じゃなきゃ色々調べる事もあるのに!」
記録的な雨に穂積たちの乗った船は波間を漂う木の葉のように翻弄されるだけだった。根っからの研究魂と戦うサラを横目に、カイは船室へ穂積を押しやる。
「いいか、ここにいろ」
「あ、あの」
普段なら返事だけで終わりの穂積が何かを言いたげだ。
「何か、見たのか」
「一瞬、人魚を見たと思います。下半身が魚で、上半身が人間でした……私、行ってきます!」
「なっ!? おい!」
良くも悪くも穂積はカイに忠実だ。最初は異世界に来て泣いていた穂積をうるさいと言ってカイは殴った。訳の分からない触媒探しという仕事に戸惑った時もお前に逆らう権利はないと殴った。だから今回も人魚を見つけろという使命を果たそうとしたのだ。
「あっちの……波間。下に水色の……」
暴風に揺られる船を器用に走って目ざす場所に向かう。任務を果たさねば。でないと殴られてしまう。
「……駄目! 見えない」
「ホヅミ!」
場違いにも初めて名を呼ばれた、と尻尾を振る犬のように一瞬だけ喜んだ。カイの拳がくるまで。
「ぅ……つっ……!」
「ホヅミ! カイ様、何をやっているのですか!」
しばらく嵐を観察していたらしいサラが駆け寄る。
「主人を無視して出歩いた」
「は? ええっと…まあとにかく! お二人ともこの浮き袋を身に付けてください! 大丈夫だとは思いますが念のため」
サラが穂積の世界の救命胴衣のようなものを二人に差し出す。
「? サラさんの分は?」
持ってきた量が明らかに二人分なのを見て、穂積が問う。
「この嵐で一つ駄目になりました。命に優先順位をつけるなら私が一番下のはず」
「ああ。……ほら、お前も身に付けろ」
カイから渡されたものを優しく押し返す。
「違います、私が下です。奴隷が一般の人と同じな訳ないじゃないですか」
「!」
「ホヅミ、あなた」
サラが何か言うより先にカイの拳が飛ぶ。
「私は言ったはずだ、身に付けろと。お前は主人の言う事を違えるのか。俺に逆らう気か?」
「で、でもサラさんは」
「この女自身が納得しているんだ。さあ、着けろ」
穂積が救命胴衣を纏うことは、サラを無下にしていることのように思えた、自分を労わってくれるサラを。でもカイには逆らえない、逆らうわけにはいかない。恐る恐る手を伸ばしたとき、高波が船を直撃した。穂積の目にはスローモーションのように見えた。
――もうどうでもいい、サラさんを死なせてまで生きたいとは思わない――
抵抗することも出来たが、あえて波に逆らわず、海に投げ出された。
「「ホヅミ!!」」
船べりに引っかかって無事だったサラとカイ。慌てて波間を除くが、既に姿は見えない。
「くっ……」
サラは横にいるカイが海に飛び込もうとしているのを見て、一瞬だけ天地がひっくり返るほどの衝撃を受けるが、慌ててカイを止める。
「何をしているの! 駄目です! 無駄に犠牲者が増えるだけだわ!」
「離せ!! ホヅミが!!! 俺のビアラが!!!!」
ビアラ、伝説の悪女の名前。いいえそんなことよりも。俺のって……。