今度は猫が死んだ
これは死んだ猫の記録するついでに、俺の考えを纏めたあまり参考にならないメモである。
今度は猫が死んだ。
最近、動物の死に触れる機会が多い気がする。どういうことなの・・・
スズメの時との違いは、見つけた時にはもう死んでいた事
車に轢き逃げされたのだ。
・・・血の色も久しぶりに見た。
「どうするか」
悩む。
もう死んでるのだから俺に出来ることはあんまりない。
埋めるにも掘る道具は持ってない、空き地に放置するわけにもいかない。何か呼ぶにも携帯電話も持ってない
さらに、俺は登校中だったりする。遅刻寸前だ
「しかたない」
俺はとりあえず、手と手の皺を合わせ合掌。さらに右手で十字を切り猫の冥福を祈る
無信教者が編み出した仏教とキリスト教のハイブリットな祈り方。
どっちが正しいかわかんないし、両方やっとけ!という、宗教家に喧嘩売る様な発想の産物である
「・・・・・・よし」
猫を一瞥し、立ち去る。白い猫だった、結構可愛かった。柔らかそうでもあった
でももう、あれはもう動かない。
ふと、じぶんに重ねる。・・・孤独死、熱い道路の上で血の熱さにも耐えながらじりじりと死ぬ
実際ありそうで怖いなと、笑った。俺には友達も余りいないしね
下校時間。
当然、猫が死んでいた道路に寄ってみる。
だけど、そこには猫の姿がなかった。ただゴツゴツとした灰色の道路があるのみ
なんか悲しかった
誰かに埋葬されたと信じるしかない。
体はないけど、そこにいたのは俺が覚えている。だからもう一回手を合わせ
「天国に行けよー」
祈った
結局、俺が死んだ猫に割いた時間は大体5分長くても10分。
長いか短いは分からない
死体を既に物として見るなら長いのだろうし、死体でも生き物とみるなら短すぎるのだろう。
祈りは、死後の世界の世界がなければ無意味なのだろうし、死後の世界があるなら大切なものなのだろう
哲学を少し齧った程度の俺には、分かるはずもない難問だ
ただ一つ確かな事がある
『俺の死体』は生き物として扱って欲しいっ!!それは確かに俺の中に欲求としてあるのだ!
後は簡単
『自分が嫌なことは人にもしてはいけない』これは道徳の基本だ。ならば逆に、『自分がされて喜ぶことは人にしてあげると良い』これも道理だろう
なら、俺は自分にして欲しいように、死に向き合えばいい
哲学の中でも、生と死は難しい問題
でも
時には小難しく哲学者ぶるより、基本の道徳で考える方が大事で、自分なりの答えを得ることになると思う
俺は神様とか、宗教とか死後の世界とかあまり信じていない。
けど、祈りも精一杯しようと思う。
生きてる者は死者に対して出来る事はあまりにも少ない事はない。ほとんど何もできないと言っていい。
だからせめて、自分がされて嬉しいように、祈りは大切にしようと思うのだ
もし、あなたの家にも小学校で使った道徳の教科書がとって置いてあるならば、確実に埃を被って埋まっているでしょう(笑)、断言します。俺の場合、洗濯物の中に埋まって化石と化していましたー
でも時には、その道徳の教科書を発掘して、読んでみてください
もしかしたら、思わぬ発見があるかもしれませんよ、
時々思うんですけど、爆弾でドーン!!と一瞬で消し屑になるなら死ぬ時の苦しみを感じないのかな・・・?
気になる