第一話 魔導師と黒猫
連載物ですが、それぞれ一話ずつ楽しんでいただける作品となっています
お読みいただけると嬉しいです
大気を震わすほどの大音響と共に、すぐ近くに雷が落ちた。雷を怖いと思ったことはないけれど、さすがに身の危険を感じる。田畑が続くこの辺りには、避難出来そうな場所もない。
私は豪雨の中足を速めた。落雷に巻き込まれると少々厄介だ。
ようやく自宅のぼろアパートに帰り着いたときには心底ほっとした。
部屋に入り、照明を点ける。
あれ……テーブルの上の黒い物体は何だろう? あんな物には覚えがない。
私は視力の弱い目で必死に観察する。黒くて丸みを帯びたもの、としか分からなかった。
傘を傘立てに置きサンダルを脱いで、ずぶ濡れのままテーブルの前に行く。持っていた白杖で黒い物体を突っついてみた。
杖先からの感覚は柔らかかった。でも何かは分からない。
もう一度突っつく……。
「何だよ、やめてよ、痛いよー」
私は驚いて反射的に後ろに飛んだ。しかし狭い部屋の中でクローゼットの扉に激しく背中を強打し、そのままずるずると床に座り込んでしまった。背中が痛くて泣きそうだ。
「全く、何やってるのー?」
謎の声が近付いて来る。痛みに霞む目を向けると、黒い物体もこちらに向かって歩いて来る……猫だ。猫は座り込んでいる私の膝にひょいと飛び乗ると、こちらを見上げた。
漆黒の艶やかな毛並み、金色に光る双眸を持つ美しい猫だった。
「あーあー、どんくさいなー」
私はやっとこの黒猫が喋っているのだと気が付いた。直後手で猫を払い落として立ち上がる。
「痛いよー、何するの?」
私は猫を無視した。人の言葉を話すような怪しげな猫とは関わらない方がいい。
痛みに顔をしかめながら数歩移動し、狭いベランダへと続く窓を大きく開け放つ。雨が吹き込んで来たが、気にしている場合ではない。
猫の方を見ると、クローゼット近くから動いていないようだ。
「やだ!」
私の意図を汲み取ったのか、猫は抗議の声を上げた。
私は猫のいる方を睨んだ。歓迎されていないことを分からせなければならない。
じっと睨み続けていると、猫が軽やかな足取りで歩いて来た。
「たまは魔導師でしょ?ボクには分かるんだよ」
私は慌てて窓を閉めた。例え窓の外に誰かがいても、この豪雨で声が聞こえるはずがないのに。……それより何故私の愛称を知っている?
「大丈夫だよ。ボクの声は他の人には聞こえないから」
大丈夫と言われても、全く安心出来なかった。とにかく早く追い出したい。
「お腹が減っているのなら、何か食べ物をあげるから出て行ってくれ」
私は感情を抑えて言った。
「やだよー、ボクはここにいたいんだ」
私の思考が一時停止した。数秒後、私は怒りで塗りつぶされそうになる一歩手前で踏み止まり、猫に言った。
「分かった。それでは私が出て行く」
後は簡単だ。荷物をまとめて出て行けばいい。
大型のリュックサックを引きずり出し、荷物を詰め始める。
「ちょっと待ってよ、ここはたまの部屋だよね?」
私は荷造りを続けながら言った。
「私が出て行ったらキミの部屋だ。後三ヶ月分の家賃は払ってあるから、好きにするといい」
全部は持って行けないので、気に入っている服や日用品を詰める。最後に貴重品をまとめてポーチに入れた。
「そんなにボクが嫌いなのー?」
声が近かったので視線を振ると、黒猫が側に来て私を見上げていた。
私は気にせず部屋中を歩き回って忘れ物がないか確認する。最後にベッドのマットの下から革製の細い筒状のケースを取り出しリュックサックに入れた。
時刻は午後一〇時を過ぎていた。一旦大きな駅まで出て、それからどうするか考えよう。
「ねえ、ボクはたまと一緒にいたいんだ。話を聞いてよー」
黒猫が私の足にすり寄って来た。私はその場にしゃがんで猫を抱き上げた。
「一度しか言わないからよく聞くんだ。私は自分が魔導師だということを隠して生活している。出来るだけ目立たないようにしているが、それでも長く一所に留まればリスクが増す。だから転居を繰り返している。この上キミのような明らかに魔力の宿った動物と共に暮らすことは出来ない。キミの事情は知らないし知りたくもないが、これ以上私を煩わせないでくれ」
私は猫を床に下ろすと斜め掛けにしているバッグの中にポーチを入れた。
「じゃあ」
私は素早くサンダルを履き、また傘を手に取り玄関を開けて外に出た。黒猫が走って来たが鼻先で扉を閉めた。
「ボクはたまを助けたいんだ!」
私は川のようになりかけている道を駅に向かって歩いた。豪雨が続いているものの、雷は遠ざかったらしい。
何度も足を取られながら水深五センチの道を進んで、ようやく浸水していない広い道路に出た。
足を止めて来た道を振り返る。田舎だしアパートはぼろかったけれど、大家は親切だしそれなりに居心地は良かった。
私は軽く首を振り、前を向いて駅へと急いだ。
「申し訳ございませんが、この豪雨で列車が運転を見合わせております」
駅員は申し訳なさそうに私に告げた。外の雨は幾分弱まっていた。
私は駅員にトイレの場所を教えてもらい、障がい者用の広い個室に入った。夏とはいえ、びしょ濡れのままでは体が冷える。リュックサックの中からタオルを取り出して体を拭いた後、Tシャツとジーパンに着替える。髪は濡れたままだが幾分気分は良くなった。
改札に戻ると駅員に声をかけられた。
「お客様、大変申し訳ありませんが本日は最終列車までの運休が決定致しました」
私は知らせてくれた礼を言い駅を出た。駅に留まっていても仕方がない。
とにかく繁華街まで出ようと、タクシー会社に電話したがこの雨で利用者が多く、迎えに行けないと言われた。
溜め息を一つ、吐く。元のアパートには戻りたくない。黒猫がいるし、何よりあそこはもう捨てた場所だ。今まで何度も唐突な転居をして来たので悔いも何もない。
でもこのまま朝まで外で時間をやり過ごすのはつらい。それに空腹だ。
今まで利用したことはないけれど、駅の近くには確か数軒飲食店があったはずだ。
アパートとは反対方向に進むと、店の灯りが見えた。『なとり亭』と大きく書かれた看板がある。
「いらっしゃいませ、当店でお食事はいかがですか?」
店の前に立っていた若い女性に声を掛けられた。元気で明るく感じがいい。
「おいしい生ビールもございますよ」
何故私がビール好きなのがバレているのか……。
「一人ですが」
私の言葉に店員は元気良く答えた。
「ありがとうございます。テーブル席にご案内します」
店内は明るく広々としていて他の客はいなかった。私の白杖に気付いた店員は、丁寧な接客をしてくれた。
私は生ビール、枝豆、焼き鳥盛り合わせを注文して一息吐いた。疲れていたので椅子にぐったりと寄りかかる。
「ニャー」
足元から猫の鳴き声がして、私は飛び上がるほど驚いた。まさかさっきの黒猫では? 恐る恐るテーブルの下を覗き込む。
「どうかなさいましたか?」
店員が戻って来たようだ。
「あ、こらノベ! お店に入って来ちゃダメでしょ」
店員は持っていたトレイをテーブルに置くと、片手でひょいと猫をつまみ上げた。
チャトラの猫だった。
「申し訳ありません。この子を外に出して来ます」
ノベと呼ばれた猫はニャーニャーと騒いでいたが、呆気なく外に放り出された。
「このお店の猫ですか?」
戻って来た店員に尋ねた。
「この辺に住み着いた野良猫ですよ。普段は店に入って来ないのにどうしたのかしら……」
店員が手を洗いに奥に引っ込むと、私は大きく息を吐いた。あの黒猫に会ったからか、猫に過剰反応してしまう。でもノベと呼ばれたあの猫は、どう見ても普通の猫だった。
目の前のトレイのビールとつまみをテーブルに並べる。並べ終わって気が付いた。ビール、枝豆、焼き鳥……実におやじっぽい。
「あ、トレイから下ろしていただいて申し訳ありません。……あの、どうかしましたか?」
戻って来た店員がじっとビールとつまみを見ている私に訊いた。
「え?ああ、頼んだ物がおじさんっぽいなと思っただけです」
店員はくすりと笑った。
「そんなことはございませんよ。居酒屋の定番メニューというだけです。あ、先程はお待たせしてしまったのでそのビールはサービスさせていただきますね」
ここは遠慮するところだろうか? 私は面倒なので礼だけ言った。
店員が消えるとビールを喉に流し込んだ。冷たいビールが五臓六腑に染み渡る。
枝豆をつまむ。やはりビールと枝豆の相性は抜群だ。
「お客様、申し訳ございません」
店員が小走りにやって来て、申し訳なさそうに言った。
「店長からお客様のお年を確認するようにと言われたのですが、よろしいでしょうか?」
私は何の躊躇いもなくバッグから障がい者手帳を出した。
「え……」
私が渡した手帳を見て店員が絶句した。
「……お客様はとてもお若く見えますね」
気を取り直した店員が私に手帳を返して言った。
「ありがとうございます」
ありがたくはないが礼を言う。二五歳にもなって十代に見られるのは微妙な気分だ。でも慣れているので特に気を悪くはしない。
焼き鳥にかじり付いていると、奥から男性店員が出て来た。ゆっくり食事をさせてくれない店だ。
「先程は大変失礼致しました。店長の古井と申します」
まだ若い店長は深々と頭を下げた。
「お客様が女子高生に見えたので、確認させていただきました。ご不快な思いをさせて申し訳ございません」
またも礼。
「気にしないでください」
私は薄く笑った。それにしても女子高生と思われていたとは……。
「お詫びにフードメニューの中からお好きなものをサービスさせていただきたいのですが、何がよろしいでしょう?」
やたらサービスをしてくれる店だ。でも未成年に見えれば確認するのは当たり前のことで、店の落ち度ではない。
「さっきもビールをサービスしてもらったし、本当に気にしないでください」
正直、面倒になって来た。
「そういう訳には参りません。……サイコロステーキなどいかがでしょう?とても柔らかい牛肉を使用しておりますよ」
本当に面倒だ。私が黙っているのを肯定の意味と受け取ったのか、店長は奥に引っ込んだ。
私はうんざりしながら枝豆と焼き鳥をビールで流し込んだ。気持ちが冷めてしまったので、もうビールもつまみもおいしく感じない。
数分後、店長がサイコロステーキを運んで来た。
「お待たせ致しました。ごゆっくりどうぞ」
立ち去ろうとした店長に私は声を掛けた。
「あの、さっきの女性の店員さんはどちらですか?」
店長は一瞬の間の後に答えた。
「天気も悪く、お客様も少ないので今日はもう帰しました」
何だか様子がおかしい……気のせいかも知れないけれど。私は店長を見た。
「さっき親切にしていただいたので、お礼が言いたかったのですが……」
実際、言葉は丁寧だが淡々としたこの店長より、女性店員の方がよほど感じが良かった。
「それなら私から伝えておきますよ」
私は言った。
「このお店に猫が入り込んでたんです。あの店員さんはすぐに外に連れて行ってくれました」
急に店長の雰囲気が変わった。
「少々お待ちくださいね」
店長は入り口を開けて外に出た。
「こら、入って来るな!」
店長の怒鳴り声に何事かと思っていると、足元に猫が二匹駆けて来た。一匹はたぶんノベで、もう一匹はグレーの知らない猫だ。二匹はニャーと鳴いてからテーブルの下の奥の方に潜り込んだ。店長がやって来た。
「申し訳ございません。すぐに捕まえますので」
テーブルの下に潜ろうと腰を屈めた店長に、私は大きな声を上げた。
「その必要はありません」
店長が立ち上がって私を見た。
「猫達が怯えています。それに外は雨で他にお客さんはいません。しばらく置いてあげてください」
店長は長い溜め息を吐いた。
「もう限界だ」
低い声だった。
「たま、離れて!」
私が反応出来ないうちに黒い影と化した黒猫が私と店長の間を駆け抜け、テーブルに乗った。
「またか! 俺は猫が嫌いなんだよ」
店長は黒猫を捕まえようとした。
「ボクも同胞を狩る奴なんて嫌いだよ」 黒猫はジャンプして軽々と店長を名乗る男の手を逃れた。
「だいたいお前みたいな雑魚にやられたりしないもんねー」
どこか高い場所に飛び乗った黒猫は、余裕さえ感じる物言いをしている。
「ねえ、そいつはハンターだよ。やっつけちゃって。ちょい寝るから終わったら起こしてね」
言葉通り黒猫は無責任にも寝息を立て始めた。
「……猫はもういい。それよりお前を捕らえてあの人に差し出す」
私は躊躇った。誰が相手でも力を使いたくない。店長を装っていた男はその逡巡を見逃さず、私の左腕を掴んで椅子から引きずり出した。
私の中に怒りの種火が起こる。でも力任せに振り払おうとしても、どうせ男の力にはかなわない。
「いい子だ。お前はなかなか可愛いし、大人しくしているなら可愛がってやるぞ?」
怒りが一気に燃え上がった。
「ふざけるな!」
叫ぶなり男の足を力任せに踏み付け、隙が出来たところを離れる。
両腕が自由になった私は左手の中指の指輪を抜いた。
「身の程を知れ!」
私の右手の一振りで男は紫炎に包まれた。
悶え苦しむ男は反撃すら出来ない。私はただ男を見下ろしていた。
男の動きは徐々に鈍り、最後に動かなくなった。男の記憶を焼き尽くした紫炎も消える。
「ふあー、終わったー?」
黒猫が飛び降りて来て男の胸の上に乗った。
「ねえ、こいつどうなったの?」
黒猫が前脚を男の顔に乗せた。
「記憶を完全に焼いた。通常の記憶喪失は記憶が戻ることもあるが、紫炎での記憶焼失は決して戻らない。次に目覚めたら生まれたての赤ん坊と同じ状態だ」
黒猫が私の足元にやって来た。
「こいつは雑魚だけど、誰かの命令を受けてたみたいだね。ここにあんまり長居しない方がいいと思うんだけどー?」
私は再び指輪をはめる。力が封じられて自分の存在が小さくなったように感じた。
「駄目だ。確認しないと……」
私は店の奥に入る。大して広くない調理場があった。
入口で、私は奥歯を噛みしめた。黒猫が唸り声を上げる。
「あいつは鬼だ、悪魔だ、ボスはきっと魔導師だよ」
魔導師を敵と見なす世界において、以前は魔導師裁判が連日行われていた。少しでも疑いがあればすぐ処刑……。そのためたくさんの魔導師ではない人も犠牲となった。
確実に魔導師だけを処刑するために採用されたのがハンター制度だった。魔導師であるハンターは同胞を殺す代わりに、多額の報酬を受け取り、人の社会で堂々と生活出来る。
もちろん魔導師からは強い反感を買い、力が弱ければ逆に倒される。
通常ハンターを雇っているのは各国政府、つまり普通の人だ。そのためハンターも魔導師以外の人を巻き込まないように配慮するし、邪魔だからという理由で殺害するなど有り得ない。
堪えていたものが頬を流れ落ちた。目の前に転がる惨殺された死体は二人分のようだった。おそらく女性店員とここの本物の店長だろう。床に広がる血の赤が目に痛い。私がここに来なければ、二人が命を落とすことはなかったのに……。
絶望し視界がぼやける中、遠い日に見た光景がフラッシュバックした。
畳の上に横たわる二つの死体、流れ広がる血、二人の顔は……。
「たま、誰か来るよ!」
黒猫の声で意識が現実に引き戻された。でも完全に自分を取り戻すために数秒かかった。
「誰だ? 客か?」
言いながら私は調理場に背を向けた。
「たぶんあいつの上の奴、強力な魔導師みたい」
私の中で怒りが燃え盛った。魔導師を使って同胞を殺す魔導師、しかも普通の人も見境なく手にかけるなど許してはおけない。
私が指輪を抜こうとすると黒猫が制した。
「駄目だよ。ここで戦ったりしたら、もっといっぱい人が巻き込まれる」
相手が高位の魔導師であればあるほど、戦闘による影響範囲は広がる。では、どうすればいい?
「ねえ、ボクに名前を付けて」
拍子抜けするほど呑気な黒猫の言葉に、私は目眩を感じた。
「ねえ、早く早くー」
思考能力が落ちていた私は、最初に浮かんだ言葉を口にした。
途端に黒猫がまとう空気が変化する。
「お店にいる猫達を連れて来て、みんなで逃げよう」
私が口を開くより先に黒猫が続けた。
「説明は後、早くして」
私はテーブル席に戻りリュックを背負った。猫達がテーブルの下から出て来たので両手に抱える。
「早く!」
私は黒猫の側に駆け寄る。その時、店の入り口が開く音がした。
「みんな目を閉じて、行くよ!」
目を閉じるより早く、世界は光に包まれた。眩し過ぎて、私は意識を失った……。