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第十三話 椅子の下にいる者


 牢は石造りだった。


 湿っている。


 床も壁も、古い水を吸ったような匂いがする。地下なのか、坑道の一部を改造したものなのかは分からなかった。窓はない。灯りは通路の松明だけ。


 僕とアリアさんとディーゼンさんは、同じ牢に放り込まれた。


 手枷は外されていない。


 待遇が良いのか悪いのか、判断に困った。少なくとも、すぐに首を斬られる気配はない。たぶん。そう思いたい。


「ぼん」


 ディーゼンさんが壁にもたれて言った。


「アリア嬢まで巻き込んで、ネロに楯突くことなかったのによ」


「いえ」


 アリアさんは、床に膝をそろえて座っていた。

 牢の中でも、背筋はまっすぐだった。気丈にしている、というより、崩れないようにしているのだと分かった。


「私も、タルボ殿と同じ思いでした」


「そう言っていただけると助かります。あの、実際のところ、僕たちどうなっちゃうんでしょうか」


「そうだな」


 ディーゼンさんが顎を撫でた。


「少なくともぼんは、上官に皇帝水を浴びせた罪で火炙りだ」


「ええっ! やめてください。妙にありそうです」


 アリアさんが小さく息を吐いた。

 笑ったのかもしれない。

 けれど、すぐに顔は沈んだ。


 僕も黙った。

 軽口は、長くは続かない。


 石壁の向こうで、ぽたり、と音がした。

 少し間を空けて、また、ぽたり。


 ラーサたちは逃げ切れただろうか。

 ヨークは。

 いや、僕はヨークを救いたかったのか。

 違う。


 そう言い切れるのか。


 何度も浮かぶのは、兄を支えていたあの手だ。


 あれを見てしまったから、動いた。

 それだけだ。

 それだけで、上官に逆らった。

 なんだ、それは。


「でも」


 声が出た。


「ネローラン殿も、あそこまで一方的に責める必要があったのでしょうか」


 言ってから、少し嫌になった。

 責められる理由ならある。

 でも、口から出てしまった。


 ディーゼンさんはしばらく黙っていた。


 松明の火が、鉄格子を通して顔に縞を作っている。


「ネロがああなったのは」


 低い声だった。


「俺のせいだ」


 アリアさんが顔を上げた。

 僕も、思わずディーゼンさんを見る。

 いつもの軽さがない。


 その顔は、坑道で剣を抜いた時よりも遠かった。


「以前から、気になっていたのですが」


 アリアさんが言った。


「お二人の関係は、ただの仕事仲間ではありませんよね」


「ああ」


 ディーゼンさんは否定しなかった。


「あいつとは、ガキの頃からの付き合いだ」


「幼馴染、ということですか」

「まあな」


 それきり、彼は口を閉じた。


 まだ何かある。

 そう分かる沈黙だった。


 重い足音が近づいてきた。

 ニラバ兵ではない。

 もっと静かで、もっと嫌な足音。

 鉄格子の前で止まる。


 ネローラン殿がいた。


 右手は外套の内側に半分隠れていた。それでも、指の動きがぎこちない。小指から中指にかけて、義腕の表面が剥け、アダマンタイトの地金が露出している。溶けた跡が、黒い筋になって前腕まで垂れていた。


 痛むのだろうか。

 そう考えて、すぐに打ち消す。


 ネローラン殿の顔は変わらない。

 怖いほど整った無表情。


「アリア・ベルハン」


 アリアさんの肩が、わずかに動いた。


「ニラバ政府はお前を解放する。家名に感謝しろ」


 鉄格子の向こうから投げ込まれた言葉は、刃より冷たかった。


 アリアさんが顔を上げる。


「全て分かっていて、私を連れてきたのですね」


「ああ」


 ネローラン殿は短く答えた。


「お前が私の部屋に来て名乗った時から、分かっていた」


 ベルハン。


 アリアさんの家名。


 その名が、ここで鍵になる。

 僕は今さら気づいた。


 遅い。

 遅すぎる。


「アリアさんのベルハンの名を、利用するつもりだったのですか」


 言ってから、喉が鳴った。


 ネローラン殿の視線がこちらに向く。


「だとしたら、どうする」


「それは……アリアさんに対して、あまりにも」

「あまりにも、何だ」


 言葉が詰まった。

 ネローラン殿は僕を待たなかった。


「アリアがベルハンの名をどう使うかは、自分で決めることだ」


 視線がアリアさんへ戻る。


「だが、アリア。お前は気づいていた」


 アリアさんの手が、膝の上で握られた。


「ベルハンの名が、この件に絡んでいることに」


「……」


「それでも目を背けた」


 ネローラン殿の声は荒くならない。

 荒くならないまま、逃げ道だけを潰していく。


「最後に私へ矢を向けたのは、正義ではない。贖罪だ」


 アリアさんは俯いた。

 反論しないのではない。

 できない。


 僕にも、それは分かった。


「そんな言い方は、やめてください」


 気づくと、言っていた。


「ネローラン殿」


 ネローラン殿の目が、僕に移る。


 体が勝手に強張った。


「お前はどうなんだ、タルボ」


 声が低くなる。


「なぜ、ヨークを逃がした」


 答えは用意していなかった。

 ヨークが完全な悪ではないから。

 不当な労働が根にあるから。

 殺せば真相が消えるから。


 言えそうな言葉はいくつもあった。


 けれど、ネローラン殿の前では、どれも薄い紙のようだった。


「……ヨークを、逃がしたかったわけではありません」


「では、何だ」


 ラーサの手。

 あの手。


「ラーサから、これ以上、奪わせたくなかったんです」


 言ってしまった。

 牢の空気が、少し冷えた気がした。

 ネローラン殿は表情を変えない。


「情か」


 短い言葉だった。

 それだけで、胸を刺された。


「お前はヨークを救ったのではない。ラーサを泣かせたくなかっただけだ」


「……はい」


 否定できなかった。


「その情で、次に死ぬ者の名は誰だ」


 息が止まった。


「ヨークがまた襲えば。鉱山が燃えれば。護衛が死ねば。輸送路が断たれれば。お前はその全員の前で、ラーサが可哀想だったと言うのか」


 言えない。

 そんなことは、言えない。


「ミルヴァードがある。宮廷がある。鉱物管理局がある」


 ネローラン殿の声が、牢の石に染みた。


「お前が毎朝座っている椅子の下に、ヨークがいる」


 顔を上げられなかった。


 机。


 資料。


 紅茶。


 山積みの書類。


 窓際の席。


 その下に。


「お前は手を汚さず、その椅子に座り続けるつもりか」


 何も言えなかった。


 反論どころか、息の仕方まで分からなくなる。


 ネローラン殿は、僕たちを順に見た。


 アリアさん。


 僕。


 最後に、ディーゼンさん。


 ネローラン殿の右手が、わずかに動いた。溶けた義腕の指先が、ぎこちなく曲がる。


 痛みのせいなのか。

 怒りなのか。

 別の何かなのか。

 やはり、僕には分からなかった。


「私は何のためにお前達を連れてきた」


 それだけ言って、ネローラン殿は背を向けた。


 足音が遠ざかる。

 すぐに、ニラバ兵が来た。

 鉄格子が開く。


「アリア・ベルハン。出ろ」


 アリアさんは動かなかった。

 ほんの一瞬だけ。

 それから、立ち上がった。


「タルボ殿」


 彼女は僕を見た。

 何か言おうとして、やめた。

 僕も、何も言えなかった。


 アリアさんは牢を出た。


 重い鉄の音がした。


 ディーゼンさんが、壁にもたれたまま天井を見上げる。


「やれやれ」


 それだけだった。


 僕は膝の上で、自分の手を見た。


 白い法衣の袖口に、煤と土がついている。

 落ちそうにない汚れだった。

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