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第90話「イードリ間近」

 次の一日が何事もなく過ぎて、イードリが近づいてきた。

 追っ手は依然闇の中に潜み姿を現さない。

「でも、本当に追っ手なんかいるの?」

 客車の中である。エリシュカは座席に気だるげに寝そべりながら、足をばたばたさせた。夕暮れが近づいて薄まり始めた昼の光の中に、チュニックの裾からのぞく素足の色がはっきりと映った。

「いるって考えておいた方がいいだろ。いなければそれは結構な話だし、いても対応が鈍らない」

 アレスは対面の席に座っている。

 追っ手については、ここまで休憩をほとんど取らず駆け通しに駆けてきたため、まだ追いつかれていないのだろうとアレスは思っている。あるいは、何らかの手段を用いて行く先で待ち伏せている可能性もある。どちらにせよ何かが起こるのならイードリ周辺だろう。イードリの中か、それともイードリから出た直後か。

「はやく出てきてくれるといい、うっとうしいから」

「余裕だなあ、エリシュカは」

「だって出てきたら全部斬っちゃえばいいだけの話」

「簡単に言うなよ。斬るのはオレだぞ」

「わたしに剣をくれたら、わたしがやる。みんな殺してあげる」

 エリシュカは何でもないことのように言った。アレスは立ち上がった。少女のその気安さを見過ごしにできない気持ちがアレスにはあって、それを愛と呼ぶとしたら大分おおげさな話になるが、呼びたければ呼んだって構わない。アレスは、エリシュカの額めがけて、愛のデコピンを放った。

「痛っ……何すんの!」

「何となくだ」

 理由も無く乙女のおでこを乱暴されてはたまったものではない。エリシュカはすばやく体を起こすと、立ち上がって狼藉者の頬めがけて平手を放った。パン、という破裂音がして、エリシュカの手はアレスの手の平に打ちつけられた。アレスはそのまま、エリシュカの指に自分の指をからめると、もう一方の手で少女のもうひとつの手の手首を握った。動きを封じ込められた格好になって憎々しげな目を向けてくるエリシュカに対して、アレスは口を開いた。

「簡単に『殺す』とか言うな」

「敵は殺すしかない」

「そうかもしれないけど、でも言うな」

「意味分かんない」

「『言うな』って言ってるだけだ。それが本当のことだったとしても言っていいことと悪いことがある」

 アレスの言葉に、エリシュカは頑としてうなずかなかった。彼女には、訳の分からないことでもとにかく飲み込んでしまうような、屈折した素直さは無い。

 アレスは、張り詰めた氷のようになっているエリシュカの瞳を見ながら、

「強く言葉にすれば思いは強くなる。気安い言葉にすれば思いは気安いものになる。キミは気安く人を殺すのか?」

 彼女の心に浸透させるように静かに言った。しかし、エリシュカはピンと来ないらしい。アレスとしてもそれ以上は言いようがないので、エリシュカの手を放すと彼女を客車に残したまま、御者台のルジェのところに行き、馬車の速度を緩めるように言った。

「オソとヤナに話がある。後車に行ってくる」

 エリシュカには自分で考える時間が必要だろうし、リーダーには仕事が多い。スピードの落ちた馬車からひらりと飛び降りると、前車に合わせて速度をゆっくりにした後車にアレスは飛び乗った。

「何だよ、リシュと喧嘩でもしたのか?」

 客車の中にいたヤナがからかうように言うと、アレスは素直にそれを認めて、彼女を面白がらせたあとに、

「もうすぐイードリだ。気持ちは変わらないな?」

 念を押すように言った。

「くどいなあ。変わらないよ。あたしもヴァレンスに行く」

「助かるよ。これで子守役を押し付けることができる」

「子どもってお前のことか? 自分の面倒は自分で見ろ」

 ズーマが声を出して笑うのを聞きながら、アレスは御者台に出ると、オソの隣に腰掛けてから、ここまでの彼の尽力に感謝する旨を伝えた。

「イードリに着くまで油断はできないけど、先に礼を言っとく。ありがとう」

 オソは、もとから細い顔をこの二日間の疲労でなお細くしていたが、目には炯々(けいけい)とした光を溜めていた。それは意志の輝きだった。

「このままヴァレンスまで一緒に連れて行ってください」

 オソは強い声を出した。

 アレスは、はっきりと聞こえていたもののあえて訊き返した。オソは先の声に倍する強さで、もう一度同じセリフを重ねた。その強さには重みが感じられて、昨日今日考えだされたものではないようである。アレスは、分かった、と一言だけ答えてオソの顔を明るくさせると、御者台から飛び降りた。それから、歩くほどの速度になっている前車まで走って、御者をしているルジェの隣に飛び乗ったあと、オソの件を告げた。

「危険です」

 ルジェは即座に反対したが、

「それは分かった上だろ。オソにも何か家に帰れない事情があるんだ」

 とアレスが言うと、ルジェは口を閉じるほかなかった。

「それに、ここまで手伝ってもらった借りを返してやらないといけないからな」

 アレスはわざと快活な声で言うと、御者を代わることを申し出た。

「客車で休めよ」

「いやです」ルジェは珍しくきっぱりとした口調で言った。

「え、何で?」

 軽く驚くアレスに、

「聞こえてました、さっきのやりとり」

 ルジェは微笑んだ。

 夕闇の中にたたずむイードリ市が見えてきたのは、まもなくのことだった。

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