第85話「廃太子の疑惑」
フェイを恐縮させたあと、アレスは、青年に王子襲撃大作戦の説明を求めた。誰から命じられたのか、なぜ命じられたのか、青年と騎士っぽい一団の正体。
「命令は太子からだ」
はっと息を呑むような音が近くから聞こえたが、アレスは無視した。いちいち慰めていたら話が進まないし、男を慰める気などない。
「太子はルジェ王子に太子の位を奪われるのではないかと恐れている。わたしはミナン国諜報部所属のクラ。男たちは太子の私兵だ」
クラ青年は簡潔に答えた。
簡潔すぎて何も分からない。
アレスは質問を続けた。
「王子が太子の位を奪うっていうのはどういうことだ?」
ルジェとはまだ付き合って数日とは言え、兄から太子の位を奪わんと企てる悪人にはとても見えない。そもそもそんな悪人であれば、もっと太子に対して警戒しているはずである。
「ユリエ妃が王に、ザノウ太子の廃位を勧めている。それからあらためて立太子の儀を行いルジェ王子を太子にするつもりだ」
アレスは首をひねった。分からない名前が出てきた。ルジェに補足を頼もうとしたところ、当の彼が、
「バカなことを言うな!」
珍しく語気を鋭くして、生ける屍のようになっているクラに詰め寄った。
「ユリエ様がそんなことをおっしゃるはずがない!」
クラから反応は無い。ズーマがかけたのは、あくまで訊いたことに答えさせるだけの呪文なのである。自由な会話を楽しむためのものではないのだ。
アレスは、怒りで頬を紅潮させているルジェに落ち着くように言うと、まずユリエさんの素生の説明を求めた。
「ボクの叔母で、王の第三王妃です」
ルジェは簡単に答えた。そして、それきり口をつぐんで、クラを睨みつけた。怒りが治まらないようである。仕方なくアレスは、フェイに汚名返上のチャンスを与えてやることにした。フェイは、王子をちらりとみて少し話しにくそうにしたが、「ここでグズグズやってる時間は無いんだ。早く話せよ」と一押しすると、話し出した。
話は少し込み入っている。
ユリエ妃は、王の妃の中で現在最も寵愛されている妃である。席次は三位であるが、実質的に王の心の中では一位であると言って良い。寵愛の理由は彼女の美貌と才知に負うところもあるのだが、もっとも大きなものとしては、ミリエ妃の生き映しであるというものだった。
さて、ミリエ妃とは、ルジェの母で、元第三王妃である。ミリエ妃は、ミナン王が生涯の中で最も愛した女性である。ミリエはすっきりと澄んだ美しさを持ち、快活であって、周囲を明るい色に染めずにはおれない性質の持ち主だった。それでいて頭の回転が速く、政務に関する王の良き相談役でもあった。王は、ミリエ妃を愛し、当時既に正妃がいたものの――これが現太子の母である――その正妃の位につけようとしたほどである。しかし、それは当のミリエの反対で実行には移されなかった。「正妃とは国の母です。母を取り替えるような王を国民の誰が尊敬するでしょうか。お考え直しください」と強く王をたしなめた。ミリエはますます王に愛された。
そのミリエ妃が幼いルジェを残して亡くなったのが十五年前である。流行病であった。王の悲嘆の色は濃く、政務に支障が出るほどだった。見かねた王臣の一人が連れてきたのがユリエである。彼女はミリエの実の妹であり、姉よりも若干叔美に欠けるものの、才色を兼ね、何よりミリエによく似ていた。王の憂愁はかなりの部分晴れたと言ってよい。
「もう一人の母と言っても過言ではありません」
ルジェが口を出した。幼くして母を亡くしたルジェはユリエに面倒を見てもらった。ユリエは姉の忘れ形見を我が子のように扱い、母と呼ばせた。「『ユリエおばさん』なんて言ったらぶっとばす!」というのが叔母の口癖です、とルジェは苦笑交じりに付け加えた。その笑いに影があるが、アレスは斟酌せずに、先を尋ねた。
「それで? そのお妃さまが現太子の廃位を王に勧めてるってのは?」
フェイがルジェの方を見ないで答えた。
「王とユリエ妃の間には子がありません。もし王がお亡くなりになったら――大地の神よ、王を守りたまえ――妃は宮中で後ろ盾をなくします。妃が自分を庇護してくれる有力な王子を見つけ、王の寵愛を利用して、その王子を太子につけようとしている……という噂があります」
「フェイ!」
王子の叱責の色を帯びた声に、フェイは身をすくませた。
アレスは、なるほど、と大きくうなずいた。
フェイは明言を避けたが、その「有力な王子」とはもちろんルジェのことである。
「それが理由で、太子がルジェに刺客をよこしたってことは、太子廃位の話がかなり現実味を帯びてるってことなのか。もしかしたらルジェが王都に帰り次第ってことなのかもな」
「アレス!」
「お、いいね、呼び捨て……まあ、何にせよ、真相はどうあれ、太子はそう思ってるってことだよ。それが大事なとこだろ」
ルジェはぐっと奥歯を噛みしめて押し黙った。
アレスもこれからのことへの思いに沈んだ。
あと三日の距離にある王都がにわかに遠ざかった。