第79話「陰謀の存否」
あまりに突然の凶行に、しかもそれを為したのが普通の町娘のような女の子であるので、二人はしばし口を開けなかった。その間に、
「『酒杯を置く狭き場所に……点れ!』」
アレスは魔法の短剣に光を灯した。そのあと、剣をゆっくりと振り上げて、振り下ろす。剣の軌跡上にいるのは、王子を迎えに来た青年である。彼は、はっとした様子で光の刃をかわすと、距離を取った。戦闘開始の空気に反応して、一人の騎士が剣を抜くと、他の騎士たちも一斉にそれにならった。
青年は、自分の後ろにいる騎士たちの先走りを押さえるように片手を水平に上げると、
「これはどういうことですか、勇者様」
表情を険しくして言った。
「どうもこうもない。敵だろ、お前」
アレスは、のんびりと言いながら、剣先を青年に向けた。
青年は眉をひそめた。
「敵とは……。わたしは太子のご命令でお迎えに上がったのですよ」
「それが本当なら、太子が敵ってことになるな」
「一体、何をおっしゃっているのか」
「分からないって言うならそれでもいいさ」
アレスは、いまだ事の成り行きを把握できないような顔でぼおっとしている王子に声をかけた。
「ルジェ。決めろ。こいつらと一緒に行くか、それともこのままオレたちと行くか。こいつらと行くなら別に止めはしない。ただ、オレたちはここで別れさせてもらう」
はっとした王子は、しかしその問いには答えようとはせずに、すぐ近くに倒れているフェイを介抱しようとした。地に膝をつく。
「起こすのはやめたほうがいいですよ、王子」
ルジェは伸ばしかけた手を止めると自分の肩越しに、声をかけてきた人間を睨みつけた。
ヤナは肩をすくめると、
「諜報部が敵に回っているってことは、当然、フェイさんも敵でしょう。だからです。王子に一番近い位置にいたので、念のため機先を制しておいたんです」
フェイを殴り倒した理由を説明した。
「ヤナさん、あなたは一体?」
「勇者の付き人一号です。あ、一号はリシュか。じゃあ、二号」
「付き人ってどこまでついてくる気だよ?」とアレス。
「決まってるだろ。魔王を倒すまでだよ」
「いないんだよ。もう、魔王は」
「じゃあ、適当な悪役だな。それなら事欠かない世界だ」
ルジェとしては、この二人の正気を疑うほかない。何の証拠もないのに、兄から来た使者を敵――しかもどういう意味で敵なのかも不明――であると断定し、戦闘モードに入っている。しかも、これまで三日とはいえ、まがりなりにも旅の仲間として一緒に過ごしてきたフェイに対して、何の躊躇もなく暴力を振るうとは。
「一瞬の躊躇で人は死ぬんだ。呆気ないほど簡単にな。よく聞け、ルジェ。今はあんたの生死の際だ。別にオレはあんたが生きようが死のうが興味はない。ただ、うちの我がまま娘のために国宝を貸すって言ってくれた意気に感じて、一回だけ助けてやる。どうする?」
アレスの声は厳然として、この三日の間にしばしば……というよりはほとんどいつも聞こえていた冗談の調子は全く無かった。本心から、本気なのである。
ルジェはフェイを抱くようにして、顔を上げさせた。気を失いながらも苦悶の表情を浮かべている。
考える時間はほとんど必要なかった。
答えを待つアレスの前で、ルジェは首を横に振った。
友人を傷つける者たちの言うことを素直に聞く気になれないのが一つ。また、兄から来た使者を疑うということが兄その人を疑うことになるということがもう一つだった。
「なるほどね。後悔しないな?」
「…………」
「なら、いいさ」
軽い口調でそう言ったアレスは当然そのまま立ち去るものと思っていたルジェだったが、どうやら、勇者の行動は予測不能なものであるらしい。一瞬後、ルジェが見たのは、光の剣を諜報部の青年に突きつけているアレスの姿だった。
「な、何のつもりですか。ゆ、勇者様」
目と鼻の先から首元に魔法の剣を突きつけてくる少年に対して、青年は声を震わせた。十分な距離を取っていたはずなのに、無造作に間合いをつぶされて、背筋に凍るものを覚えていた。
「王子の件じゃない。今度はこっちの件だ。あんた、殺す気だろ、オレたちを」
「……そ、それはどういう……?」
「目撃者をそのままにしておく間抜けが、太子のそば近くに仕えられるわけがない。ルジェを殺したあと、あんたらを見たオレたちを殺す。あるいは、オレたちに王子殺しの罪を着せる。違うか?」
膝を地につけたまま、かたわらで聞いていたルジェは、アレスの正気を疑った。とてもまともな人間の考えることではない。被害妄想もいいとこである。このような人間を王に推挙しようとしていたのかと思うと空恐ろしくなるルジェ。
しかし――
「さあ。後ろのナイトたちに剣を捨てさせろ」
アレスは剣先を青年の首にさらに近づけた。そのあと、「剣を捨てろ!」と大きな声を上げる。
地に武器が落ちる音は一つとして聞こえてこない。
「警告するぞ。きっかり三つ数えたら、お前たちのリーダーを斬る。ひとーつ!」
「無駄だ。これはわたしの部下ではない」
「ふたーつ!」
「よせ。こんなことをしてただで済むと思っているのか」
「みーっつ!」
「殺せ、王子もろともこいつらを――!」
光の剣は青年の喉元を突いた。
青年は天を仰いだあと、へなへなと地に崩れ落ちた。両膝を地面についてから、顔面からばったりと倒れ込む。起きた時にまず土の味を感じることだろう。
「な、オレの言った通りだったろ?」
上から降ってきたアレスの声は、ルジェの耳には届いていなかった。