第76話「旅の途中 パート5」
二度目の悪夢は見なかった。
どうやら、うめき声を上げてズーマを楽しませずに済んだようである。
テントから出ると、空が低い。灰色の雲が日の光を遮って辺りは薄暗く、空気はひんやりとしている。
アレスはストレッチを始めた。体を柔らかくしておけば、いつ何どき敵に襲われようと、機敏に対応が可能だ。勇者のたしなみである。アレスは、無意識のうちに危険に対応しようとしている自身を意識して大きな満足を覚えた。そうして、
「さすが、オレだな」
自分で自分を褒めた。誰も褒めてくれないので、自分で褒めるしかない。そんな悲しい一人遊びをしていると、馬車の客車の戸が開き、エリシュカが起きてきた。彼女は、センカが見立ててくれた、ぱっと見嫌がらせとしか思えないような、クマさんプリントのパジャマを身にまとっている。しかし、それが何とも似合っているのだから、微笑ましい。微笑ましいというか笑える。いくら威張っていても、そんなものを身につけて喜んでいるようでは、まだまだお子ちゃまである。
朝からエリシュカの機嫌を悪くしてもつまらない。アレスは注意深く笑みを隠した。
エリシュカは、はわはわとあくびをしながら、寝ぼけたような声を上げた。
「おはよ、アレス」
アレスは、激しく自己主張をしている彼女の白髪を見ながら、
「髪を梳かせよ。百年の恋も醒めるような顔してるぞ」
と自分の後頭部にできた寝癖は棚に置いて言った。
エリシュカは眠たげな半眼で、「醒めたら、また一年目から始めればいいでしょ」とうがったような、全く的外れのようなことを言った。
そのうちにちらほらとみな起きてきて、アレスの寝癖が直り、エリシュカの白髪が綺麗にくしけずられて、朝食が終わったとき、
「よし、みんな、注目!」
アレスが立ち上がって全員の注意を引いた。
「いつものように、ルジェ王子からのありがたいお言葉がある。心して聞くように!」
唐突に話を振られた王子は、「ええっ!」と小さな驚きの声を上げたが、みんな注視してくる上に、拍手まで起こり始めたので、立ち上がるしかなかった。アレスは腰を下ろす。
ルジェは咳払いをした。
「これまでお疲れ様です、みなさん。あと三日ほどで、王都に着きますので、この調子でみな力を合わせがんばりましょう。以上です」
ルジェが座ると、代わりにアレスがもう一度立って、
「良く分かったな、お前たち。王子のおっしゃったとおり、王都まではこれからも苦難の道が続くだろう。だが、くじけてはならない。ここにいる全員の力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられる。信じるんだ、オレたちの力を。そして必ずや、あの幻の都に――」
熱弁をふるい始めたところで、みな立ち上がって、朝食やテントの片づけを始めた。
アレスはぽつねんと取り残された。
起きぬけから天気が悪かったが、出発する頃になると小雨が降り始めた。
雨をやり過ごすかどうか訊いてきた王子に対して、アレスは首を横に振った。大した雨ではない。
「一刻も早く王都に着きたい」
アレスはきっぱりと言うとマントを羽織り、オソを客車に行かせると自ら手綱を取った。アレスの御の腕は大したものではないが、普通に走らせるくらいなら問題ない。王子の馬車は当然フェイが運転する。馬車に行くときに一瞬不満そうな顔をみせた彼を、アレスは傲然と睨みつけた。
小雨の中を二乗の馬車が行く。
灰色の風景の中、髪や顔を濡らしながら御者台に座っていると、客車の戸が開く音がして、ついで、「横にどいて!」という声が聞こえた。アレスがおしりをずらすと、隣に、マントとフードで完全武装したエリシュカが現れた。
「何で出てくるんだよ」
「『そばにいろ』って言ったの、自分でしょ」
「また、ソレ! 別にいつも隣にいろってことを言ったわけじゃない」
アレスは風邪を引くといけないから中に入っているように言ったが、エリシュカは頑として聞き入れない。アレスはため息をつくと、好きなようにさせておいた。手綱を握った状態では勝ち目は無い。これから雨が強くなるようなことがあれば、小休止を取ればよい。幸い、街路沿いにちょこちょこと木々がまとまって林になっているところがそちこちに見えた。
「うーん」とエリシュカが可愛らしい唸り声を上げた。
「どうした?」
「なんか昨日、アレスに対してムカついてたことがあったと思うんだけど、忘れちゃった」
「あー、そういうことは忘れた方がいいな。忘却の海の底に沈んで、数千年は誰にも見つからない方がいい」
「なんだったっけ?」
「知らないよ。知ってても言うわけないだろ」
エリシュカはなおも考えていたが、答えは出ないようだった。そのうち面倒くさくなったのか、「もういい」と諦めたように言うと、
「とりあえず後で殴ることにする」
とまことに男らしい態度ではっきりと宣言した。
誰を殴るつもりなのかは訊くまでもない。アレスはずりずりと身をずらした。それに合わせてエリシュカが寄ってくる。御者台にはスペースに限りがあって、当然、アレスが逃げられるわけはない。アレスが動きを止めてもエリシュカはなおにじり寄って来た。
「ちょっと、エリシュカさん。くっつき過ぎじゃないですか?」
ぴったりと寄り添うような格好になっている少女に、アレスは抗議の声を上げたが、
「だから、何?」
エリシュカに華麗に一蹴された。
アレスは片側の肩に少女の重みを感じながら、前方の空を見た。
行く手の空は雲が切れて晴れ間が見えている。
じき雨は止んだ。