第75話「旅の途中 パート4」
夜中、テントの中で眠っていたアレスはふと目を覚ました。
恐怖の残影が頭のなかにある。
はっきりと覚えてはいないが、どうやら悪夢を見たらしい。脇の下に嫌な汗を掻いていた。
アレスは夜目に、隣に横たわっているズーマをうっすらと確認したあと、テントを出た。闇である。夜気が心地よく皮膚を撫でた。近くにもう一つテントがあって、そこにはフェイとオソが眠っているはずである。王子と女性陣はそれぞれ馬車の客車の中で休んでいた。客車は、シートが動く仕掛けになっていて、シート同士をくっつけると立派な寝台へと変化する。
アレスはテントのそばの地面に腰を下ろすと、空を見上げた。
星はポツポツとしか見えなかったが、月は明らかである。
月を見ていると頭がすっきりと冴えて、悪夢の残滓が洗い流されるようであった。
旅先で、こういう風に空を見上げるようになって一年を超えた。この先一体、どのくらいの期間、同じような夜が続くのだろうか。答えは出ない。というか、そもそもまともに考えるつもりがあまり無い。旅から旅への暮らしは、一方で一つの場所で関係を深められない寂しさがあるものの、他方で常に新しい場所に赴くことができる楽しさがある。新しい風物、新しい人。後者の楽しさには格別なものがあって、今のこの旅もその楽しみを提供してくれるだろう。
「でも、結婚もしたい!」
この世のあらゆるものから守ってやりたいと思わせるほど可憐な容姿で、従順で、言葉遣いが綺麗で、料理が美味しくて、デートの待ち合わせのときに「だ~れだ」と言って後ろから目隠ししてくれるようなそんなお茶目な女の子がいたら、いつでも旅装を解いて、脱いだマントやブーツをたき火で完全に焼却する覚悟がアレスにはある。
幸せな空想にふけっていると、布がすれる音がして、アレスのテントから影が現れた。
「どうした? まさか、リシュ嬢とヤナ嬢の馬車の中にもぐりこもうとしているんじゃないだろうな」
ズーマが言った。
ただ月を見ていただけなのにあんまりな言い掛かりである。しかし、アレスはショックを受けたりしなかった。ズーマの悪口雑言、罵詈暴言、三流の冗談には、もう慣れっこになっている。
「まだ死にたくないから、そんなことはしない」
アレスが答えると、ズーマは隣に腰を下ろし、
「いい月だな」
空を見上げた。
「あの月から美少女が降ってきたりしないかなあ」とアレス。
「何の為に?」
「オレの結婚相手として」
「アホか」
「オレは本気だ」
「なるほど。本物のアホだな」
アレスはごろりと横になった。地面の冷えが背中に心地よく伝わった。
「それにしても、お前とあと幾晩、こういう風に一緒に月を見なきゃいけないんだろうなあ」
「気色の悪い言い方をするな。その問いへの答えは『お前次第』だ、アレス」
「オレは時々思うんだけどさあ――」
アレスは寝転がったままズーマの方に体を傾けた。
「お前、本当は全部分かってるんじゃないのか?」
闇を通して、ズーマが口元に笑みを浮かべるのが見える気がした。
「もし、そうだったら?」
青年の声にはからかうような色がある。
「いや、別に。ただ訊いてみただけだ」
「ほお。まあ、やめたくなったらいつでもやめて構わんぞ。我々の間にあるのは契約ではない。ただの約束だからな。履行しなくてもペナルティはない」
「オレは口にしたことは守る」
「じゃあ、リシュ嬢との結婚約束もか」
アレスの口から、うっと何かが喉に詰まったような音が出た。
「ん? どうした? 確か言ってたよな、『口にしたことを必ず実行してきたのがオレの誇りだ』とか何とか」
「……とりあえず、エリシュカの件が済み次第、またお前のことに戻ることにする」
「ごまかしたつもりか。わたしは一向に構わんぞ。わたしのことを理由にするのはやめろよ、男らしくない。リシュ嬢でも、センカ嬢でも、ヤナ嬢でも、故郷にいる愛しの君でも、月の乙女でもいい。誰とでも結婚してくれて構わん。そうして定住しろ。そうすれば、わたしもせいせいした気持ちで金髪美女を相棒にできるからなあ」
「ふざけるな。お前にいい思いさせてたまるか……それに、約束は果たす。結婚はその後だ」
「あまり期待はしてないがな。まあ、正直に言えば、お前は相棒としてはなかなか面白いヤツだ。できれば長く付き合いたいものだが……」
「え、何で、なんかもうすぐ死ぬみたいな言い方なんだよ」
「『それがズーマが聞いた、アレスの最後の言葉であった』」
「おい!」
ズーマは立ち上がった。
「リシュ嬢のことは何としてもやり遂げる気だろうが、あまり無茶はするな。お前が死ねば、悲しむ者も少なくない。ちなみに、わたしは全く悲しまないがな」
そう言って、テントへと帰った。
それがズーマ流の心配の言葉のかけ方だということが分かるくらいには、アレスはズーマと親しかった。
月が傾いたようである。
しばらくして、アレスもテントへと戻った。