第74話「旅の途中 パート3」
やがて夕闇が下りて、夜になった。
旅人を休ませるための宿場町はすぐそこのところにあったが、一行は野営を選んだ。街道沿いに馬車を停めて、テントを張る。別にキャンプ好きというわけではない。単純に経済的な問題である。アレスは、王子のことを一団の財布役として大いに期待していたのだが、どうやら持ち合わせにあまり余裕が無いようで、節約して使っていく必要があるらしい。ケチくさい王子もいたものである。そう言うと、
「王子の使うお金は全て国民の血税でまかなわれています」
と穏やかに諭された。無駄遣いはできないというわけである。それでも三日に一度くらいはちゃんとしたベッドの上で眠ることを王子は提案してくれた。事実、昨日は宿に泊まっていた。
幸いなことに、イードリ市長が携帯用食料をわんさか積み込んでくれたおかげで、食べるには困らない。
食事を作るのはヤナの役割になっていた。押し付けたわけではなく、彼女が自分から言い出したのである。他の人に任せていたらロクでもない食生活を送らされる破目になるのではないかと恐れたのだった。亜麻色の髪を結い上げたヤナのエプロン姿は、彼女の本性を知らない、王子、フェイ、オソに好意的に受け入れられ、特にフェイを魅了しているようであった。まるで下働きのように食事の用意をせっせと手伝っている。とはいえ、それ以外の時は親しく話しかけるでもないフェイに、アレスは、内心で、
「がんばれよ、このムッツリヤロウ!」
とエールを送っておいた。
火を起こしたりテントを張ったりするのはアレスがやっていた。パーティの中で一番手際が良い。
「何でそんなにうまいの?」
訊いてきたエリシュカに、
「フ、勇者っていうのは戦闘のほかにも何でもできてしまうものなのサ。惚れ直したろ、ハニー?」
無意味に自分の黒髪をかき上げながら答えると、
「そういうのって下っ端がやるもんなんじゃないの? 勇者って下っ端時代があるの?」
という冷静な突っ込みを入れられて、思い出したくない過去を思い出し意気消沈した。
その間ズーマは、野営地に結界を張る。地面に小さな魔方陣を描いて呪文を唱えると、野営地全体が見えない魔法の天幕に覆われて、その領域内に侵入者があるとアラームが鳴るという寸法になっている。結界を作る魔法は決してマイナーなものではないが、大体はもっと大掛かりなものである。都市全体や、もう少し小規模でも王宮くらいの大きな建物全体に、しかも魔法の道具の力を借りて、ある程度年月をかけて行うのが通常であって、
「驚きました。小規模な魔法に手を加えて大規模な魔法にするならまだしも、もともと大きな魔法を小さく使うのは並大抵のことではありません。王宮の魔導士の中にこれができるものがいるかどうか……おそらくいないでしょう。さすがは勇者殿のお兄様ですね」
とは王子の談である。
携帯食で作ったとは思えないほど美味しい料理を食べると、ヤナはお茶を入れてくれる。
「もう一杯どうですか、アレスさん?」
たき火が照らす柔らかな横顔にいたずらっぽい笑みが見える。馬車がイードリの町をスタートしてから、ヤナはまるで良家の子女のような言葉遣いをしている。アレスは、「いつまで続けるんだよ、ソレ」という意を込めて、軽く睨んでやるが、ヤナはどこ吹く風である。どうやら、王子やフェイやオソから普通の女の子として見られるのが楽しくて仕方ないらしい。
アレスはお茶のお代わりを断ると立ち上がって、歓談の輪の中から出た。
あまり動かなかった日、眠る前の軽い運動は習慣になっている。
アレスは腰から短剣を抜くと、心の中だけでその刀身を伸ばした。
闇の中に浮かび上がる影がある。
それはまだあどけない顔をした、しかし、どこか大人びた穏やかさを持つ少年のそれである。
アレスが少年に向かって剣を振るうと、ゆらりと少年の影が動く。それを追うアレス。アレスの心が産んだ影の動きは相当に速いが、しかし捕えられないほどではない。アレスは力まず焦らず、じっくりと影を追った。二十手ほどで、アレスの剣は少年の影をとらえた。斬られた影は消えた。アレスはふう、と息をついた。シャツにじっとりと汗をかいている。
「アレス」
闇の静けさを、澄んだ鈴の音のような声が震わせた。
アレスは短剣を腰の鞘に納めると、さくさくと草を踏みしだく音を聞いて、影が少女の形を取っているのを見た。
「誰と戦ってたの?」
「昔の知り合いだよ」
アレスはエリシュカに答えた。
「どんな人?」
「そうだな。剣と魔法の達人で、顔もいいし、性格もいい。一言で言えば、勇者だな」
「アレス以外にも勇者がいるの?」
「勇者が一人だけだなんて誰が決めた?」
「ふーん。アレスとどっちが強い?」
「剣だけの勝負だったら多分オレの方が強いけど、総合的には負けてるな。人間的にもあっちが上だ。エリシュカがあいつと会ったら、多分オレから乗り換えたくなると思うね」
アレスは笑いながら言った。少しして、エリシュカから反応が無いのを訝しんだところ、脛のあたりに鋭い痛みを感じた。蹴られたのである。
「何すんだよ!」
「別に」
「キミさあ、よくないよ、その『別に』っていうの。ちょっと可愛いからって調子に乗っちゃいかんよ。人間は中身が大事なわけだからね。大体キミはさあ――」
くどくどと山鳥の尾のように長い説教をしてやろうとしたところ、エリシュカが走り去っていくのが気配で分かった。
夜が更けた。