第66話「出発前の腹ごしらえ」
宿の外に出ると、空が高かった。快晴である。一点の曇りもない清々とした青は魂が吸い込まれていきそうな美しさで、絶好の旅立ち日和と言えた。
「楽しい旅になるといいなあ」
まだ人影少ない街路を歩きながら、アレスが機嫌の良い声を出した。
「旅は長いのか?」
「もうかれこれ一年くらいになるなあ」
「何で旅してるんだ?」
アレスの目元にさっと寂しげな陰が差す。
ヤナは足を速めた。アレスは彼女を速足で追いながら、
「お、おい。今話そうとしたところだろ。何で聞こうとしないんだよ」
言うと、
「自分の胸に訊け」
という答えが返ってきたので、言われた通り胸に手を当ててみた。それから、ハッと何かに気がついたような顔をして、
「分かった! 適当な作り話をしようとしたからだ!」
勝ち誇ったように言うと、ヤナは歩く速度を通常のものに戻した。どういう人生を経てくれば、このようにチャラチャラしていて、なおかつ、ここぞというときに大胆に一挙に踏み切ることができる人格が作られるのか、実は、ヤナの興味はアレス自身にもある。
「なんか腹減って来たなあ。ヤナのとこで朝メシ食わせてくれる?」
しばらく大通りを歩いてから、一本裏に入り、また少し歩くと、情報屋協会イードリ支部入り口についた。細い路地である。門番のようなガタイのいい男二人が、ヤナを見つけると小動物のようにすり寄ってくるのが不気味であった。ちなみにアレスに対しては憎々しげな視線が送られたことは言うまでもない。
「お嬢の周りをぶんぶん飛び回る虫め!」
という心の声が露骨に聞こえた。どうやら朝食は諦めたほうが良さそうである。
建物の中に入り、昨日通された一室の中で、アレスは少し待つようにヤナに言われた。「茶でも出してやれ」というヤナの声にしぶしぶ男の一人がお茶を運んできたが、飲んでみると毒かと思われるような苦さである。あまりの歓待ぶりに眉をしかめていると、立派な身なりをした紳士が現れた。
「おお、婿殿」
ヤナの父は、両手を広げて、「さあ、わたしの胸に飛び込むがよい」という格好を作ったが、中年のおっさんと抱き合う趣味はアレスには無い。アレスは、がっかりしたように肩を落とす面白オヤジに、ヤナを伴って王都まで行くことになった成り行きを告げた。
「ほお、婿殿はミナン王に仕えるのか?」
「あっちがオレを気に入ればだけどな」
「それは逆ではないのか?」
ヤナの父は一瞬その目を刃物のように鋭くしたが、すぐにもとの柔らかい目つきに戻した。
「食えないおっさんだな」
アレスが言うと、情報屋協会の長は目尻に刻まれた皺を深くした。
「あんたから言えば、ヤナもオレたちについてくるのを諦めると思うけど」
「アレには幼い頃からあらゆることを叩きこんである。どんなところでも生き残れるようにな。足手まといにはならんよ」
「だからって、娘のことが心配じゃないのか?」
「いくら心配してもいずれわたしの元から離れていく。安心できる男に任せられるなら、それに越したことはない」
「昨日会ったばかりだろ」
「わたしくらいになるとな、人間性など一瞬で分かる。お前はどんなことがあっても仲間を守る男だ」
アレスはその言葉を挑戦と取った。そういう人間になってみろ、ということである。さすがに一組織の主ともなると、人を扱う術に長けている。
「『任せろ、やってやるぜい!』って叫んでもいいか、おっさん?」
「やめてくれ、ウルサイから」
未来の父(仮)と和やかに話していると、ぞろぞろと部屋の中に、体格のいい男たちが何人も入ってきた。みな揃って元から怖い顔を更に固くしている。彼らは、アレスを取り囲んだ。アレスのぐるりはうっとうしい密度になって、暑苦しくなった。男のうちの一人が長の許可を得て、おもむろに発言した。
「話は聞いた。もしお嬢に傷一つでもつけてみろ、ここにいる全員でお前をどこまでも追いかけて、相応の目に遭わせてやる」
長の前であることに遠慮したからか、声音の中に脅迫するような調子は薄かったが、それがため返ってその言葉には真実味があった。おそらく彼らにとって、ヤナは娘や妹のような感覚なのだろう。アレスは、部下の行動に苦笑している長に向かって、ヤナに恋人ができない理由が分かったことを告げた。
「このコワモテたちの息子や弟になる勇気があるヤツはそうはいないだろうからな」
アレスは男たちを見回すと、大地の神に誓ってヤナを守ることを厳かに宣言した。
男たちがさかしらなことをする少年に対して鼻を鳴らす。
用が済んだ彼らが部屋を出ていくと入れ違いになってヤナが姿を現した。
アレスは目を丸くした。少女の細身は真っ白なエプロンに包まれていて、頭には三角巾が結ばれている。
「え、なんで、そんな可愛いカッコしてんの、ヤナ?」
アレスが戸惑いを正直に表すと、ヤナはちょっと照れたような顔をして、
「なんでって、食べるんだろ、朝メシ。あっちの部屋に用意したからすぐ来いよ。父さんも」
と言って、そそくさと引っ込んだ。
食事を作れるとは意外な一面である。しかもエプロン姿が良く似合っている。
「どうだ? 今ちょっと嫁に欲しくなっただろ」
長のからかうような声に、アレスは不覚にも、もう少しでうなずいてしまうところであった。