第59話「軽挙の報い」
時が凍りついたようであった。
センカの可憐な顔が伏せられる。
停止した時の中で、アレスは覚悟した。これから起こるであろうことがはっきりと心の目に見えている。取られた腕がぐいと引かれ、体が崩れる。体が宙を舞って、視界が回転し、一瞬後床の冷たい固さを感じる。二人の見物人の前である。それはそれはカッコ悪いことこの上ないが、自らが招いたことであるのでどうしようもない。そうしてそのあと、まるで女王のような冷然とした目で上からセンカに見下ろされることになるだろう。それもまたやむなし。
――さあ、来い。センカ!
アレスは気合を入れた。軽く震える足に力を込める。「今すぐ逃げようよ」と主張する足に喝を入れたのだ。アレスは自分の勇気に自分で感心した。
「白だよ」
きっぱりとした声が立ち昇った。
アレスは自分の手から陶器のような滑らかさが去ったのを感じた。
呆気に取られたアレスの前に、センカの顔がある。
怒色に染め上げられてさぞや凄絶な美しさになっているだろうと思われた少女の顔は、アレスの予想に反して穏やかな、いやむしろ寂しそうな色にしっとりと浸っていた。
言葉が無いアレスに、センカは微苦笑すると、
「じゃあ、仕事に戻るね」
と言って、背を向けた。
それはほとんど反射的な行動だった。考えたわけではない。そのまま行かせてはいけないような気がして、アレスはセンカの、それでとっても大の男を投げ飛ばすことなどできそうにもない華奢な手を取った。
センカは振り向かない。
「センカ……」
「なに?」
しかし、アレスにはそれ以上かけられる言葉などなかった。なかったからこその、女の子に下着の色を訊くという暴挙であったのだから。
「こ、今度、黒をプレゼントするよ」
センカは手を離すように言った。
静かな声である。
従うほかないアレスを見ずに、センカは遠ざかった。
その背まで追うことはできないアレスは、これなら投げられた方がまだマシだと思った。まさかそんなことを思うことがあるとは、世は不思議である。その不思議は少しだけ哀しかった。
アレスはぽりぽりと頭をかくと、居心地悪そうな顔をしているルジェに、
「なあ、どうすれば良かったと思う?」
尋ねた。
ルジェは困り切った顔で、さあ、と答えた。
「何だよ、経験あるだろ、色々と」
「ありませんよ」
「ウソつけ。恋愛劇の主人公みたいな顔しやがって」
「女性は苦手です」
その一言で、アレスは一気に王子に親近感を持った。
「それで、ボクに訊きたいことというのは? 脅迫は必要ありませんので、何でも訊いてください」
アレスは気を取り直すことにした。
「呪式研究所のことだ。あんた、あそこにいたな?」
ルジェは素直にうなずいた。
「関係者なんだな?」
「広く言えばそうです。ボクは王子で、あそこは国の施設ですから」
「オレがこの宿にいることを知ったのはそこからの情報だな」
王子がどのようにしてこの宿に現れたのか。そんなことは考えるまでも無かった。イードリに来てから接触した人間や場所の中で、王子と関係のありそうなのは呪式研究所しかない。ルジェはこれまた素直にうなずいた。
「で、あんたはエリシュカのことを知ってるのか?」
アレスは努めて力みを消そうとした。しかし、それは逆から言えば力が入っていたということでもある。
ルジェは今度は軽く首を横に振った。
「被験者であるということしか知りません。ボクは三日前に初めてあそこに着いたばかりです。言葉を交わしたこともありません」
「オレは研究所からエリシュカをもらいうけてきた。研究所とエリシュカの間にどういう取引があったのか、それとも取引といえるものはなかったのかは知らないけど、返す気は無い」
「結構です。博士はもう十分にデータは取れたと言っていましたし。研究所にはボクから連絡しておきます」
瞬間、アレスは自分の未熟さを知った。データが取れたからもう必要無いと、エリシュカのことをまるで使い捨ての物のごとく言われたことにカッとして思わず手を出しそうになったのである。同行者、同行者、とアレスは自分の心を鎮める呪文を唱えた。
「それで、あれは何の機関だ?」
「呪式の研究機関です」
「怪しげな呪式を作って何をするつもりだ?」
「何も怪しげなものは無いと思います。戦闘補助用と医療用の呪式を開発しているだけですので」
ルジェは笑って言った。その笑いに陰のようなものは見えなかったが、かえってそのせいで先ほど王子に感じた親近感はいくばくか減殺された。
アレスはそれ以上は何も訊かなかった。山賊団を下働きにしている組織が研究していることが怪しくないとすれば、この世から怪事は一掃されるだろう。しかし、その点について突っつきすぎると、王子と一緒にいたくなくなるかもしれない。それは今の段階では得策では無かった。
アレスはサカグチ氏を捕まえると、明日宿を出る旨を告げた。ついでにエリシュカの部屋も頼んでおく。サカグチ氏は人の良い顔に寂しさをよぎらせた。さすがに商売人であった。