第55話「身元の証明」
国宝というのは、国家の魂であると言っても良い。それをよこせというのは、国そのものを欲しているといっても過言ではない。国に仕える諜報部のメンバーであるフェイは、怒りで顔を赤くした。しかし、もっと怒って良いはずの王子ルジェの方は涼やかな顔をしたままである。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
その声には純粋な疑問の色しかない。
――へえ……。
アレスは目を覚ました思いで、ルジェを見た。部下の方はしょうもないが、主の方はなかなか寛容な人間らしいと思ったのである。あるいは、ただのバカか。アレスは言葉を継いだ。
「サージルスの石は強い魔法の力を秘めている。その力を借りて呪文をかけたい」
「どのような?」
「死病を癒す呪文だ。女の子がひとり死にかかっている」
「女の子……大切な方なのですね」
「そうでもないよ。昨日知り合ったばっかだし。まあ、顔は綺麗だけど、口は悪いし性格も悪い、しかもオレより強い」
ルジェはしばらく、考えるように顔を落とした。
無茶なことを言っていることはさすがにアレスにも分かっている。国宝をくれと言って、「はい、どうぞ」と渡してくれる王族がどこにいるか。いるわけがない。しかし、アレスとしては何にせよ必要な物は手に入れるつもりなのである。手段は選ばない。が、平和的に手に入ればそれが一番であり、王子と会えたというまたとない機会を得たわけだから、試しに言ってみたというまでのことだった。
やがて、ルジェは顔を上げた。
「呪文をかけるためということは、サージルスの石自体を欲しているわけではないということですね?」
アレスはうなずいた。国宝のコレクションをするつもりなどない。
「その呪文というのは、それをかけることによって石が破壊されたり、あるいは石から力が失われたりするものですか?」
ルジェの質問の意図が分かってきたアレスは意外な展開に半ば呆れながら、隣のテーブルからこちらの話に聞き耳を立てている銀髪の青年と目を合わせた。
「サージルスの石は無限の魔力を持っている。そのようなことは無い」
ズーマは断定的な口調だった。その口調からすると、過去に、サージルスの石、あるいはそれと同レベルの魔法の道具を扱ったことがあるのだろう。
「分かりました。さすがに国宝を差し上げるわけにはいきませんが、その呪文をかけるために一時お貸しするということでいかがでしょうか?」
ルジェは澄んだ声で言った。
アレスは確信した。
――こいつは本物のバカだ。
と。しかし、半端に賢い人間よりは心からのバカの方がアレスは好きである。
「第四王子の身分でそんなことできるのか?」
「分かりません」
「おい!」
「でも、石を大事にしてヴァレンスの英雄を無下にするのならばミナンは滅びる。それだけは分かります」
ルジェはにこりとして言ったあと、出発の日を訊いてきた。
明日にでも、とアレスは答えた。
「望むところです」
「決まりだな。交渉成立」
アレスは明るい声を上げた。これで次の目的へのとっかかりができた。ヴァレンスに行くか、ミナンに行くかの迷いも無くなった。すっきりである。センカの料理が一層美味しく感じられるだろう。早く夕メシ来ないかな、と思って黒髪の少女の姿を探そうとしたとき、
「ちょっと待って下さい、王子!」
と近くから焦りとも怒りとも取れる声が上がるのが聞こえた。
フェイはルジェの横に立つと、主の顔をのぞける位置に来た。
「こんなどこの馬の骨とも分からないヤツに国宝を貸すだなんて約束、やめてくださいって」
「フェイ。失礼なことを言うのはやめないか。ヴァレンスのアレス殿に向かって」
フェイはかなうならば、王子の肩をゆすったり、頬を張ったりしてやりたい気持ちだった。もちろん、そんなことはできないので、
「なに言ってんスか。見てくださいよ、こいつの顔。どこにでもいるただの田舎のクソガキですってば。こいつがヴァレンスを救えるなら、おれは世界を十回は救えますよ」
語勢を強くした。
「やめないか、フェイ」
「やめませんね。大体、どうして王子はこいつのことをあのアレスだって思うんですか? 証拠は?」
そこまで言うと、フェイは、アレスの方を向いて、昨年ヴァレンスの乱を治めた勇者であるということの証明を求めた。
「アホか。自分が自分であることの証明なんてする方法ないだろ」
アレスは、センカを待ちながら、淡々と答えた。
「乱を鎮めたならその功は国にとって第一級のものだろう。何かヴァレンス王家から賜り物があるはずだ」
「ヴァレンス王家の印が刻み込まれた宝剣とかか? 英雄詩の読みすぎだよ、あんた」
「じゃあ、自分があのアレスだって証明するものは無いんだな?」
「あのアレスってのがどのアレスかは知らないけど、とりあえずオレがアレスっていう名前だってことは確かだ」
アレスは悠々と言って、フェイを一層カッカさせると、おもむろに手を挙げた。
センカが膳を持って、テーブルに近づいてきていた。