第52話「戦闘、回避!」
まるで朝帰りをした娘のようにおっかなびっくり宿の中に入ると、すぐにお母さん……もとい、センカが、イソイソと近寄って来た。
「お帰りなさい、アレス」
満面の笑みである。その愛らしいスマイルを見ていると、つい彼女がヤワラ・マスターであることを忘れてしまい、「ぼくと結婚を前提にお付き合いして下さい!」と交際申し込みをしたくなるアレスだった。
センカの笑みは、彼女のぱっちりとした瞳がアレスの後ろへと向けられたとき、少し熱をさましたようである。アレスはごくりと唾を飲んだ。ヤナも相当きっぷが良いが、センカだって前のことをグズグズ引きずるような女の子ではない。ないはずである。だから、以前のことをぞろほじくり返して、復讐するなどということもない。ないと思いたい。そう念じて、宿の扉を開いたわけだったが、どうやら考えが甘かったか。
センカはじいっとアレスの後ろを見ている。見続けている。センカとアレスの距離は一歩ほどしかない。仲の良い恋人同士がいちゃつくのに適切な距離から少し離れているだけであって、その近距離は明らかにセンカの間合いであった。逃げ場は無い。アレスは覚悟を決めた。そうして、どうして町の宿屋で決死の思いにならなければいけないのかということを、もう何度目になるか知れないが、不思議に思ったりした。世には神秘が溢れている。
「そちらの方は?」
そして、奇跡が起こる。
アレスの体から張り詰めていたものが散った。どうやらセンカはヤナのことを覚えていないらしい。危機は去った。ほっとしたアレスが、エリシュカ救出のために助けを借りた子だと言うと、センカはさっと顔色を改めて、ヤナに向かい綺麗に頭を下げた。まるで、エリシュカの姉のような風情である。
「お世話になりました」
やれやれ良かった良かった、とホッと息をついたのも束の間、アレスがふとヤナの顔を見ると、礼を受けた少女の顔はなにやら固い。切れ長の目に冷然とした色がある。どうしたのかニャア、と首をひねるアレスの前で、ヤナは、
「……ふざけるな」
と、全身からゆらゆらと怒気を立ち昇らせた。顔を上げたセンカが、「え?」と分からない顔をする。アレスも分からない。今のセンカの対応に何か礼を失したところがあっただろうか。
「あたしのことを覚えてないのか? あたしはお前のことをずっと覚えてたのに!」
ヤナは、十年ぶりに再会した幼なじみに忘れ去られでもしていたかのような切なさをまじえた声で言った。
それを聞いたアレスは思った。
――何言っちゃってんの、この人!!
折角センカが忘れてくれていて、一触即発を難なく免れたというのに、なぜわざわざ導火線に火をつけるような真似をするのか。全く分からない。かなうなら彼女の口を手で塞いで宿の外に連れ出したいくらいの気持ちだったが、そんなことを許すヤナではないし、またセンカでもない。
「申し訳ありません。以前にどちらかでお会いしましたか?」
センカは戸惑った風である。どうやら完全に記憶に無いらしい。たった二カ月前のことを覚えていないというのはよほどセンカの脳の作りが大らかなのか、あるいは、小さな喧嘩など日常茶飯事でいちいち覚えるに足りないということか。後者だったらとても嫌だなあ、とアレスは思ったし、
「あたしなんか覚えておく価値もないってことか?」
ヤナも同様のことを考えたらしい。少女の瞳が妖しい光を帯びる。
ここでようやくセンカの目の色が変わった。ヤナの危険性を感じたのである。しかしもっとも危険なのは、二人の美しき格闘家に挟まれている自分自身だろうと思い、アレスは泣きたくなった。
「どこでお会いしたか、おっしゃってくださいませんか?」
センカの口調はあくまで丁寧だが、彼女の眼底には重たい光が溜まり、何らかのスイッチが入りそうな目をしていた。とてつもなく怖い。
「何なら今日ここで初めて会ったってことにしてやってもいい。そして、今度は忘れられなくしてやるよ」
ヤナが答える。完全にチンピラ然としたセリフだった。しかし、ヤナは一流の格闘家であり、ただのチンピラではない。
挟まれるアレス。いったいどうやってこの危機を乗り越えれば良いのか、頭をフル回転させた。それにしても、危機続きである。まるで曲芸師の曲芸のようにハラハラドキドキが連続して起こる人生など、アレスの望むところではない。それなのに、なぜ? しかし、今は運命を恨んでいる暇などない。
この危機を回避するために、何かないかと首を回してみると、食堂のテーブルで食事を取っているズーマとエリシュカの姿が見えた。一足先に帰ってきて早速夕飯をエンジョイしているのだ。空腹を覚えるとともに腹が立った。しかし、彼らに腹を立てても仕方がない。
そのときアレスは、宿泊客の一人だろうか、茶色の髪をした二十歳前後の青年がこちらに近づいてくるのを見つけた。これぞ大地の神の助けである。アレスは、
「よお、スティーブ! スティーブじゃないか! 久しぶりだなあ!」
宿屋中に響き渡るような大きな声を朗々と出して、センカとヤナの間に漂うマジバトルの始まりを告げる厳粛な雰囲気を、思いきりぶち壊してやった。