第44話「交わされた契約」
押し黙ったエリシュカにアレスは先制攻撃をしかけた。
先手必勝である。
ただし、何に勝たなければいけないのかということは明らかではない。
「いいか、よく聞けよ、エリシュカ。キミを助けたのはこのオレだ。確かに呪文はズーマがかけたけど、それは嫌々やったわけだからな。キミなんか死んでもどうでもいい、なんていうノリだったんだから。オレは違う。キミを助けるために最大限の努力をした。そうしてキミは生きてる。だから、いいか、キミを助けたのはオレ、このアレス様だ。恩に感じろよ」
アレスはちらりと少女の顔をうかがった。後ろからなので、横顔しか分からないが、心ここにあらずといった風で声が届いていないような様子である。アレスは、手綱から片手を放すと、エリシュカの頬を軽くつねってみた。少女の頬は、この暑さにも関わらず、なめらかでひんやりとしている。反応が無いので、今度は頬の横にあるお下げをクイクイ引っ張ってみることにした。やはり反応が無いことに調子に乗ったアレスが、少女の脇腹の辺りをつんつんしていたところで、
「死にたいの?」
極寒の地に吹き付ける雪まじりの風のように冷たく鋭い声が耳に滑り込んだ。
アレスはいたずらを叱られてなお反省する気の無いわんぱくな子どものように口を尖らせてみせた。
「なんだよ、キミの命はオレが助けたんだぞ」
「だから?」
「助けた命は助けた人間のものだ。つまり、キミはオレの物だってこと」
「ステキ」
「だろ。だから――」
「ご主人様とでも呼べばいいの?」
アレスは咳払いした。
「そう呼びたければあえて止めないけど、それはどうでもいい。オレが言いたいのは、オレが助けた命なんだから、もう勝手に死に急いだりするなってことだよ」
その言葉は早口で、緊張の色があった。
エリシュカは振り向いた。
アレスはそっぽを向いて目を合わせないようにしている。
それがアレス一流の優しさだということにエリシュカは気がついた。体の奥が何だかぬくぬくとしてきて、同時にくすぐったくなった。不快な感覚ではなかったけれど、それを素直に受け入れることはなかなか難しかった。結果、それを受け入れる代わりに、
「助けてくれなんて言ってない。余計なことしてさ」
憎まれ口が飛び出した。
アレスはムッとした。
「あ、そういう言い方ないだろ。こっちは山賊団とリーグル男と命からがら戦ったってのに」
「ウソだ。いくらあなたが弱くても、あんなのに苦戦するわけない」
「キミは見てないから、分からないんだよ。凄い数だったんだから。三十……いや、五十人くらいいたね。リーグル男は五人いっぺんに襲いかかってくるし。いや、ホント、死ぬかと思った。オレはこの背中の呪いの剣を抜いて、どうにか撃退したってわけだ。代わりに、魂を半分吸い取られた」
「全部吸い取られれば良かったのに」
「何てこと言うんだよ。未来の夫に向かって」
「あれは忘れて。どっちみち結婚するまで、あと一年いる。半年じゃ足りない」
「理屈が合わないじゃないか。キミ、オレを婚約者にしたのは今朝のことだぞ。今朝の時点では一年生きるつもりがあったのか?」
エリシュカは首を横に振った。
「婚約者が欲しかっただけ。結婚できなくても、婚約者がいれば乙女心は満足」
「なんて勝手な子だ」
「それが女の子」
「おい。自分個人の話を一般化するな。この世の中にはきっと自分のことよりも他人のことを心配するような心優しい女の子もいるはずだ」
「うん、いる」
「そうだろ」
「空想の中に」
ズーマの治癒の呪文には毒舌レベルを上げる副作用でもあるのだろうか。あるいはこれがエリシュカの本性なのか。アレスは彼女を助けたことを後悔してみたが、それは心の表層にとどまって、どうしても心の奥底には響いていかなかった。つまりは、生きていてくれて良かったという気持ちが消しがたくあって、可愛げのなさを見せつけられてもそう思うというところに、自分のお人好しがあるのだと思うとがっかりするものを覚えた。しかし覚えつつも、それを肯定する自分がいることは否めない事実であった。
「とにかく、もう勝手な行動はするなよ。コートのオヤジに付いて行くのは厳禁だからな。常にオレの目の届く範囲にいろ。いいな」
アレスは厳しい声で言った。これにはどうしてもうなずいてもらわなければいけない。
「いいな?」
エリシュカは答えずに、後頭部をアレスの胸につけて、よりかかった。
「おい、エリシュカ」
「……お腹、空いた」
「答えろ」
「何か食べさせてくれたら答える」
「ダメだ。キミには前科があるからな。『はい』って答えない限り、何も食べさせないからな」
「器が小さいなあ」
「何だと!」
「……って言えば男はムキになって何でもしてくれるって、ライザが言ってた」
「答えるんだ、エリシュカ」
アレスの怒ったような声を聞いているうちに、エリシュカは自分が微笑んでいるのが自分で分かった。その微笑みを産む気持ちを何と呼べばいいか分からないまま、少女は小さなあごをこくんと軽くうなずかせた。




