第37話「交渉は強気で」
命令された白衣の若い男は一瞬躊躇する振りを見せたが、すぐに玄関へと戻った。
太陽は、過保護な親が子に注ぐ愛情ほどの、いささかうっとうしい量の光を浴びせてくる。
「ここは一体、何の研究をしてるんだ?」
まるで商店のおやじに話しかけているかのような気安さでヤナが訊いた。
「お主は?」
「勇者アレスの付き人、その一!」
「勇者?」
「ヴァレンスのアレスだ。名前くらい知ってるだろ」
初老の男は、ほお、と興味ありげな声をもらしたが、目には光が無い。
「あるいは、それを騙る偽物だ」
「おい! 『騙る』ってなんだよ。オレは何も言ってない。勝手にそっちが勇者とか思ってるだけだろ」
「何だと? 紛らわしい名前しやがって。違うなら、今すぐ改名しろ。アラスとかアロスとかにな。あと、勇者だと思って、ドキドキしてたあたしの乙女心返せ」
「何のドキドキだよ。それ絶対、『こいつがもし勇者だったら、倒せばあたしの名が上がるな』とかそういうドキドキだろ」
「そんなわけないだろ。どこの武者修行だよ!」
白衣の男は二人のやり取りを、どこか遠くから眺めるような目で見ていた。
「それで?」とヤナ。
「ここは呪式の研究所だ」
「でも、普通の研究所じゃない」
「それほど特別なことをしているわけではないがな」
「じゃあ、あれは?」
ヤナの指が向けられた先に、人ならざるものの横たわる姿がある。
「戦闘用の呪式だ。それ以上は機密事項でな」
呪式は主に医療用として使われるものだが、その肉体強化、回復力アップという特性を活かし、戦闘の補助として使われるものもある。しかし、人を半人半獣の存在にするとは、それは戦闘の補助という領域を遥かに超えていた。
「なんだ、あれは呪式の効果か」
ヤナはがっかりしたような声を出した。彼女としては、本物の獣人を期待していたのだろう。そのあと、ヤナはあのリーグル男が元のヤマダ氏(仮)に戻れるのかどうか、訊いた。
男の目に嘲るような色が現れた。
「そうでなければ芸術とは言わん。わしは芸術家だ。美しいものしか作らん」
リーグル男から人に戻るということのどこに美があるのか、アレスには分からなかったが、そこは美的感覚の違いということだろう。それにしても、戦闘用の呪式ということは、これからミナンの兵士は、ヤマダ氏(仮)のように、半人半獣の存在となって戦場を駆けるのだろうか。他人事とはいえ、ぞっとしない話である。
「あんたはここで呪式を研究してる。研究のためには実験台が必要だろう。それが、そこのヤマダ氏とかエリシュカってことか?」
夢破れてがっくりきているヤナのあとをアレスが引き取った。
「その通りだ」
「実験台にするやつらはどこで集めてくるんだ? ロートのやつらにさらわせるのか?」
「大方は志願者だな」
「志願? 実験台募集の立て札でも出してるのか? それとも張り紙? 『君も獣人にならないか』って?」
アレスには初老の男とおしゃべりを楽しみたいという気持ちは無い。エリシュカが来るまでの暇潰しである。その当のエリシュカがなかなか来ない。まさか塔の最上階に幽閉しているわけでもないだろうから――そもそもこの施設には塔自体が無い――それにもかかわらず時間がかかるということは何らかの小細工が疑われるということになる。
「つまんないことはやめとけよ」
「何のことだ?」
「オレが知るわけないだろ。つまんないことはつまんないことだよ。オレはエリシュカに用があるだけで、差し当たってあんたらに用はない。エリシュカさえ引き渡してくれるなら、すぐにここから出てく。あとは実験でも何でも好きなことを続ければいい」
アレスの傲慢な言葉に、初老の男の後ろに控えていた残りの一人がカッとして、「勝手なことを!」と息まいた。「よせ」という上司からの注意の言葉をはねのけるように、まだ若い男は一歩前に出て、
「ここは国の研究機関だ。実験体も国所有なのだ。こんな無法なことがまかり通って――!」
言おうとした言葉は、しかし最後までは続けられなかった。男は腕に痺れを感じると、それが一瞬後には全身に広がって、意識が暗転した。
茶色の地面に倒れ伏した白衣を見おろしながら、アレスはため息をついた。
「こういうことはしたくないんだけどな」
首を横に振りながら痛ましげな顔で続けるアレスの姿は、どう見ても正義の味方からはかけ離れていたという。アレスは今しがた振るった光の剣で虚空を斬ると、剣先を地面に向けた。
部下とは胆力が違うのか、初老の男は眉ひとつ動かさない。しかし、アレスは脅迫をしたわけではないので、男の態度が怯えを帯びなかったことに関しては何とも思わなかった。「早くエリシュカを出せ」という脅迫をしたわけではなく、「今すぐ出さないと勝手に探す」という意志表示をしたのである。アレスがそう言うと、「どっちだって同じことだろ」とヤナが冷静に突っ込みを入れた。