第36話「できる限りは話し合い」
立ち上がって急にガバリ、後ろから噛みつかれてギョエエ、などということにならないようアレスは、少し時間を取った。起き上がって来ないことをしっかりと確認すると、小さく息をつく。髪の生え際のあたりから汗が出て、頬をくすぐりながら落ちていった。
「しっかし、気持ち悪いな。何だ、コイツ」
近づいてきたヤナは涼しげな顔で言うと、アレスが止める間もなく、倒れた獣人に近づくと、首の辺りに手をかけた。
「おい、何やってんの!」
「何って、コイツの正体を見てやるんだよ。中からどんなおっさん顔が現れるか楽しみだ」
子どものように目をキラキラさせて獣人の首に手をかける少女。異様な図である。中から何が現れたところで、それが何の足しになるのか。そういう計算はヤナには無いらしい。純粋な好奇心であるようだ。
「……アレス」
一通りごそごそやっていたヤナは、やがて立ち上がると、ニコニコと笑顔を見せた。何か良いものでも見つけたのだろうか。
「どうした?」
「これ、どうやら被り物じゃないらしいぞ。どこにも被り物を留めるための紐らしきものがないし、皮膚に完全にくっついてる」
「へえ……」
アレスは生返事しか返せない。被り物じゃないとしたら本物ということになる。本物ということになってしまったら、どんなことになるのか。考えたくないが、恐ろしいことであるのは確かだ。そんな恐ろしいことを知って、彼女はなぜ平然と、いやむしろ喜ばしげな顔ができるのかが分からない。
「情報屋の性分かもな。未知のことを知るとドキドキするんだ」
ヤナは物欲しげな顔でアレスを見た。
アレスは首を横にした。
「今はそんな時間は無い。それに、オレは良く知らない。獣人のことを知りたかったら、ズーマに訊いてくれ」
「知ってるの?」
「あいつは無駄に年取ってるからな。大抵のことは知ってる」
「教えてくれるかな? お金取る?」
「あいつは情報屋じゃないし、しかも話好きだから大丈夫だ」
「やった」
ヤナは、はしゃいでみせた。どれほど嬉しいのか、頬を紅潮させて、口調まで幼くなっている。
アレスは半人半獣の人外の存在などに興味は無かったが、目前にある研究所が何を研究しているのかということには興味を持った。獣人が出てくるようなところである。ロクな研究がなされているはずがない。
「それに、ここが公の組織であるなら、行われている研究はミナン国王の指示ということになるしな」
先ほどまでの喜色の代わりに、凄味のある光がヤナの瞳に宿っていた。獲物を狩る肉食獣の目が持つような冷たい輝きを見て、アレスの背筋は寒くなった。女の子、怖! と思った。そうして、この世界のどこかに、もう思わず抱き締めずにはおれないような、頬をぷにぷに指で突っつかずにはいられないような、この世のあらゆるものから守ってやりたいような、そんな女の子がいるのかどうか、ちょっと考えてみた。
アレスは肩を落とした。これまでの経験から推すと、答えはノーだった。仮にそんな女の子がいたとしたら、それはおそらく作っているのであり、男から庇護を引きだすための演技に違いない。計算された身振り。この世に可憐な女の子などいない…………いや、待てよ。そこで、アレスは唐突に悟りを得た。
「もしかして、この旅の目的は――」
「おい、なにぶつぶつ言ってる? また出てきたぞ」
ヤナの鋭い声に促されて、アレスは正面玄関から現れた新手に目を向けた。研究所員だろう。白衣の三人組である。先頭に初老の男が立ち、後ろからそれに仕えるような様子で二人の二十代くらいの男が続く。
アレスがのんびりと言った。
「あれ、斬っていいと思うか?」
「何でいきなり斬りかかるんだよ。お前、どういうヤツだよ」
ヤナは呆れたように答えた。
「そうするといろいろと面倒なことが省けるんだよ。だって、どうせ敵だろ」
「バカだな。情報を聞き出してからにしろ」
「オレ、おっさんと話すの嫌いなんだよなあ」
「克服しろ。お前ならできる」
三人はアレスたちから数歩離れたところで止まった。
アレスはいつでも斬りかかる心づもりである。
その雰囲気を察したのか、はたまた累々と横たわっている山賊団プラス獣人の絵に恐れをなしたのか、後ろに控える二人の男たちは顔を強張らせたが、先頭の初老の男は対照的に平静な顔をしていた。
「ここに何の用かな?」
落ちついた声音で言う。
アレスは軽く手首を動かせて、剣先を揺らせた。
「エリシュカをよこせ」
男は思案げな顔で、白髪まじりの顎ひげを触った。
アレスは隣にいる少女を見ると、「これで話はしたよな」と確認するように言った。ヤナは、「もうちょっとがんばれよ」と返してきたが、もう面倒だった。アレスは次の行動に移ることにした。
まさにそのときである。
「フタのことだな。よかろう。連れて来い」
初老の男が肩越しに、後ろの一人を見て、淡白な声を出した。