第33話「約束なしの訪問」
小一時間ほど馬の背に揺られて風を切ったところで、緑が濃く密集しているところへ来た。
森である。
「ここを抜けたところに研究所がある」
ヤナが馬の鞍に取り付けられていた水筒で喉をうるおしながら言った。アレスも同じようにして水を飲んでから、危険かもしれないので案内はここまででいいと言って彼女を帰らせようとしたが、
「いや、付き合わせてもらう。帰り道にも案内が必要だろうし、何よりお前の正体を知りたい。ヴァレンスの魔王を倒した者と同じ名前を持つヤツのな」
ヤナは首を縦に振らなかった。
荒くれ者たちをまとめ上げている少女である。アレスは早々に説得を諦めた。
「分かったよ。でも、オレの探している子が本当にこれから行く場所にいたら――」
「おい、『いたら』って何だ? いるんだよ、あたしの勘がそう言ってる」
「『勘』って何だよ。情報屋だろ、あんた。……とにかく、エリシュカがそこにいたら、オレは何をおいてもあいつを奪いに行く。面倒くさいこと考えたくないから派手な話になる。だから、もしそれでもその場から離れないって言うなら、できるだけオレのそばにいてくれ」
ヤナは呆気に取られたような顔をした。
「え、何で?」
「何でって……守ってやれるからに決まってるだろ」
「……あたしを?」
「他に誰を。なに変な顔してんの?」
鬱蒼と茂る木々を左右にして、整備された小道があり、アレスが先行した。前から、猪や熊、魔法使いや、研究所の見張りが現れたときの用心である。ここからは敵のテリトリー。あまり急ぐことはできず、ゆっくりと馬を進めた。風の無い森は死んだように静かで、時折聞こえる鳥獣の鳴き声が一層静けさを助長した。一日のうちでもっとも暑い時間帯になっている。汗が吹き出るようだった。
やがて視界が開けた。
切り開かれたような広い場所へと出て、小道はそのままするすると伸び、その先に二階建てほどのさほど大きくない建物があった。「研究所」である。
「森の番人として、竜でもいるかと思ったけど、大丈夫だったな」
アレスは馬から下りると、木につなぎながら言った。
「いたら、倒してやろうと思ってたけど」
「竜は聖獣だぞ。倒したら呪いを受ける」
「じゃあ、会ったら大人しく殺されるしかないのか」
「バカ、逃げるんだよ」
同じように近くの木に乗馬を留めたヤナが言う。アレスはもう一度だけ、ここで待つか、あるいは帰るように勧告したが、少女の決心は変わらなかった。
「守ってもらってみるさ」
楽しげな顔をするヤナ。
アレスはヤナを後ろにして、再び道を歩いた。ゆるやかな上り坂になっている。見通しのきくどこにも隠れようもない道で、はなからアレスにも隠れる気持ちなどない。堂々と歩いて行って、堂々と中へ入り、堂々とエリシュカを連れ戻すだけの話である。彼女には彼女の事情があるだろうが、それはとりあえず関係ない。連れ戻してから詳しい話を聞けば良いだけの話。
建物の周りには鉄線が張り巡らされているわけでもなく、背の低い垣根がぐるりを囲んでいるだけである。訪問者を拒絶しようという意志は建物からは見られない。とても秘密の研究がなされているような雰囲気ではなかった。
「本当にここでいいんだろうな?」
アレスは疑わしげな声を出した。
「多分な。いかにもそう見えるところこそ、そんなことは行ってないもんだ。こういうところの方が秘密機関らしい」
「そんなもんか?」
「生意気な言い方するな。アマチュアのくせに」
門というには、いかにも貧相な、アレスの胸ほどの高さまでしかない両開きの木の扉があって、その前に、白衣が二人立っていた。
アレスはのんびりと歩いていって、二人から少し離れたところに立った。隣にヤナの長身が立つ。彼女はアレスより少し背が高い。
「当研究所へ、何かご用でしょうか」
白衣の一人が穏やかな声を出した。表情も柔和で、山賊団とは真逆であった。顔からはとても後ろ暗いことをしているとは思われない。しかし、アレスには、「女の子以外は人を見かけで判断しない」という良識が備わっており、白衣に日光を反射させていたのは、都合の良いことにどちらも中年の男性だった。
「所長に会わせてもらいたいんだけど」
アレスはいきなり言った。
「お約束がおありですか、それともどなたかからのご紹介でしょうか」
男の声は丁寧である。アレスは、「いや」と首を横に振った。
「では、申し訳ありませんが、お引き取り願います。当研究所に興味がおありでしたら、最寄りのイードリ市の市長経由で、当研究所の所長へ会見のお申込みをなさってください」
アレスは大げさにため息をつくと、一つだけ訊きたいことがあるんだけど、と前置きしてから、
「エリシュカを探してるんだけど、ここに来てないか?」
訊いた。男は不思議そうな顔を作ると、
「そのような名前のお子様はここにはいらしてないようですが」
答えた。
アレスは軽く肩をすくめるようにした。男は申し訳なさそうな顔である。その顔は、一瞬後、苦悶に歪んだ。それから男の目はいつもの高さから地面へと落ちた。夏の日の静けさの中に、どさり、という音が鈍く響いた。
「オレは一言もエリシュカのことを子どもだなんて言ってないぜ」
自分の拳で地に倒れた白衣の男を見ながら、アレスはニヤリとした。