第32話「呪式研究機関」
しばらくして調べに出た男が帰って来た。ヤナにそっと耳打ちする。
「今から三時間ほど前、北門から、お前が言った二人らしき人間がイードリを出た。一人はこのクソ暑いのに長衣を着ていて、もう一人は子どものくせに白髪だったというから、間違いないだろう。そんな奇妙な取り合わせが、二組あるとは思われないからな」
ヤナの言葉に、アレスはうなずいた。時間も合う。
「ロート・ブラッドの砦も北にある」とヤナ
「じゃあ、遠回りせずに済むな。帰りに潰してこよう」
「そりゃいいな。イードリが一つ清潔になる」
ヤナの冗談のような調子に呼応するように周囲から失笑が漏れた。少年の大言壮語をさげすんだのである。周りの男たちがニヤつく中で、ヤナだけがひとりすばやく笑みを消した。
「こいつがあのアレスだったら、そのくらいは平気でやるぞ。ヴァレンスの戦場で、訓練された兵士を一人で二百人から斬った男だったらな。ハンパな山賊なんか紙細工みたいにちぎれるだろうよ」
仲間に告げる口調はやはり冗談のようであったが、その中に潜む真剣味に気がついたように、男たちは元の恐い顔に戻った。
アレスは先を促した。
ヤナは少し考えたあと、
「そいつら二人の行き先としていくつか候補はあるが、一番怪しいのは、北にある森を抜けたところにあるこじんまりとした建物だな。国所有で呪式の研究機関らしい。たまに研究所員が町に来る」
言った。「呪式」というのは、特殊な紋様のことで、これを人体に施すことにより、一時的な肉体の強化や回復の速度を上げることができる。主に医療用として使われるものである。
「これまで調べたところでは別に怪しげなことは行われていないようだが、呪式の研究をなんでわざわざこんな田舎でするのか、それ自体がすでにして怪しい」
アレスはすっくと席を立つと、返された魔法の短剣を腰に吊った。
「本当に迎えに来る気があるのだろうな?」
隣からズーマが疑わしげな目で少年を見上げた。アレスはニッと笑って、キラリ白い歯を光らせた。ズーマはやれやれと首を振った。
「おい、ちょっと待て」
そのまま駆けださんばかりの勢いのアレスをヤナが止めた。
「今の情報だけでお前一人で辿りつけるわけないだろ。足はあるのか? あたしが案内してやるから付いて来い」
馬の準備を命じるヤナに、強面の男の一人が顔色を変えて、自分がアレスの案内役をすることを申し出たが、
「いや、あたしが行く。こいつの正体に興味がある。もしも、あのアレスだったら、ウチの支部は他の支部に対して面目を施す。なにせヴァレンスの乱が治まって以来、行方不明だった『勇者』の足取りを捕えることができたんだからな」
軽くはねつけられた。男はうさんくさそうな顔でアレスを見た。その小生意気な顔は、とても一国の急を救った大人物のようには見えない。お嬢も年頃である。もしかしたら別のことに興味を持たれたのではないか、と疑った男だったが、それを口にするには命を賭ける必要がある。
建物を出ると、早速、馬が二頭用意されていた。
「お前、馬、乗れるか?」
「乗れるけど、しがみつかせてくれるっていうなら、あんたの後ろに乗せてもらいたい」
「こいつ、いつもこうなのか?」
ヤナはひらりと馬上の人となると、見送りに出たズーマに声をかけた。
「いや、いつもではない。少なくとも寝ている時は静かだ」
「寝かせたいと思ったことは?」
「そう思わなかったことがあるかどうか、という質問にした方がいい」
アレスは馬の首を撫でた。
「オレをエリシュカの所に連れてってくれ。頼むぞ、リュウセイ」
「おい、勝手な名前をつけるな、そいつの名前はロビだ」
という叱声を聞きながら、アレスはロビにまたがった。それからゆっくりと歩かせ始める。心は疾走しているのだが、街中を馬で駆けるわけにはいかない。
ヤナがその横に並んだ。
重圧感さえ感じそうな強い日光の中、裏通りを抜け、楽しげな市民が歩く大通りをカッポカッポ歩き、しばらくすると、北門が見えてきた。石造りのアーチを抜けると、平野が広がっており、遠くに山並みが見える。季節は夏である。そちこちで緑が鮮やかだった。
「走るぞ」
ヤナが馬を急がせた。アレスは少女の背を追う。エリシュカもおそらく同じように馬で帰ったことだろう。馬は人の歩くスピードの十倍以上で走ることができる。もしエリシュカが歩いていてくれたらその辺で追いつけるかもしれないが、可能性は薄い。なにせ、先導者のザビルがあの長衣を着て歩いて帰ったとは思われない。「大体、何だあの長衣は? 日焼け対策か」とアレスは思った。しかし、ザビルのあの高慢な性格からして、最高速度でせかせか帰ったとも考えにくいから、こちらが全力疾走すれば、多少はタイムラグを埋められるだろう。
リュウセイ=ロビが素晴らしい速度で走るのを感じながら、アレスは、エリシュカに再会したら、昨日出会ったばかりのくせにこんなに心配させてくれたお礼として、おしりを思いきりひっぱたいてやることに決めた。