間の話2「旅する王子」
木のドアをノックすると、中からかすれた声が応えた。
開いたドアの向こうに広がっているのは雑然とした世界である。床一面にばらまかれた本、また本の山。実験器具のような不思議な装置類が作る丘。紙屑の海。さして広くないその部屋は混沌を極めていた。その散らかりようの中で、ただ一つ、一つだけある机の上は綺麗に片づけられていて、まるで砂漠の中のオアシスのように見えた。
机の向こうにある椅子に初老の男がかけていて、後ろの窓から差す光が男の頭を明るくしている。
「最後のお願いに参りました」
初老の男は、訪問者に目を向けた。まだ二十歳前の青年である。男性特有の低い声さえ聞かなければ、少女と言っても通る容姿をしている。青年は、おっかなびっくり、カオスの大地を踏みしめながら、老人の前まで歩いていった。
「どうしても博士を魔法部の最高顧問にお迎えしたいのです」
何度も言っていることなのだろう。青年は前置き無しで切り出した。
初老の男は目を細めた。
「それはもうお断りしたはずだが」
「お願いします。この通りです」
青年は頭を下げた。金色の髪に日が当たって淡い光を発した。
男はつまらないものでも見るような目をすると、
「やめなさい。交渉事では相手に頭を下げたらそこで負けだ」
かすかに注意するような口調で言った。
「交渉ではそうかもしれませんが、これはお願いですから」
青年も負けじと言い返す。頭は下げたままである。男は、青年に頭を上げさせてから、願いに応えることはできないとはっきりとした声を出した。
「どうしてもなのですか? 博士の開発なさった呪式は画期的なものです。この技術があれば、我が国は大きく発展することでしょう。その陣頭指揮を取っていただきたいんです」
「わしは技術屋ではない。あくまで芸術家だ。業を売れば、芸術家ではいられなくなる。それはわしの望む所ではない。どうせ老い先短い身だ。やりたくないことはやらん。それに、新しい呪式に関しては、レポートさえあれば、わしでなくともここのスタッフで十分だ」
「しかし――」
「畏くも、王とは旧知の仲、微力を添えたい気持ちがないわけではないのだが、この性には逆らえん。この地に一安を得て、自由な研究をさせてもらったことへの、せめてもの恩返しが今回の呪式だと思ってもらおう。むろん、今後も新しい呪式を編みだせば報告はする。隠しだてはせん。わしは作り上げるまでの過程を楽しみたいだけであって、できたあとの結果などに興味はないからな」
声は平板なもので、全く力みのないものだった。だからこそ返って意志の強さが感じられて、青年はがっくりと肩を落とした。しかし、すぐに顔を上げると、分かりました、と物分かりの良いところを見せた。初老の男は皺のよった目元をかすかにやわらげると、
「一つアドバイスを聞く気があるか?」
青年に声をかけた。
「え? ええ、もちろん」
「今回の呪式はミナンで専有するのではなく、周辺国に売りなさい」
青年はびっくりしたような顔をした。
「何をおっしゃっているのですか、博士。この呪式を我が国の兵士に施せば、一人で一団に匹敵する力を持つのかもしれないのですよ。それを他国に売るなどと」
「だからこそだ。今、ミナンと境を接している国のうち、ヴァレンスを除く、シャルニラ、ハマド、ソムキスは互いに互いを牽制し合っている。もしそのうちの一国にこの呪式を売れば、たちまち野心をたくましくして、他の二国を攻撃し始めるだろう。三国が混乱状態に陥れば陥るほど、ミナンには有利だ」
青年は考える素振りを見せると、
「ミナンがまっさきに攻撃対象になることはありませんか?」
慎重に言った。
「はっきり言って、ミナンなど、周辺諸国は誰も気にしていない。いつでも攻め滅ぼせると高をくくっている。呪式を売って、その代わりに庇護を願えば、まず攻撃されまい。なるとしても、一番最後だ。そのときには、いかな呪式の力があったとしても、二国と戦ったその国は大きく疲弊しているはずだ。とにかく、今のミナンに必要なのは周辺国の混乱なのだ。その中にこそ、ミナンには生き残る道がある。正攻法にこだわると、遠からずミナンは滅びるぞ」
「……ますます、博士をお招きしたくなりました」
「いや、こういうことは机上でのみ言えること。実行には色々と困難が伴うだろう。アイデアの一つとして考えておけばよい」
「お言葉、肝に銘じておきます」
青年は、師に対するかのようにうやうやしく頭を下げた。それから背を見せないように後ずさろうとしたが、床に散り敷かれた有象無象のせいでそれは困難を極めた。あげくドアまでの途中で転びそうになったので、初老の男は、この部屋は最上の礼儀作法を受けるに値する人間の住む所ではない、と言って青年の転倒の危機を救った。
「これから、どうするのだ?」
青年がドアに辿り着いたとき、男が言った。
「イードリへ行ってみます」
「ほお、なぜ?」
「先ほどライザ殿から聞いたアレスという名が気になります。もしあのアレスが我が国に来ているのだとしたら、見過ごす手はありません」
「ふむ。クヌプスをやった勇者アレスか。あまり勧められんな。相当の化け物に違いない」
「この国の為になるのなら、化け物でもなんでも構いません」
そう明るい声で言うと、青年は部屋の戸を開けた。廊下で軽く頭を下げる。
パタという音とともにドアが閉まり、足あとが遠ざかったあと、部屋の中で男はひとりごちた。
「末子であるのが惜しいな。あやつが太子であればあるいは……」