第25話「ミナン国の紋章」
男はまっすぐ、明らかにこちらに向かって歩を進めてくる。浅緑色の長衣は裾で路上の塵を集められそうなほど長く、袖も長いせいで外に現れている体の部分は手と顔だけである。
「あれ、お父さんか? 手土産ないけど、挨拶だけでもいいか?」
「そんなわけないでしょ。あれは敵」
「その小剣で貫くヤツか」
「違う。でも、ついでに貫いてやってもいい」
エリシュカの手は早速、小剣の柄に触れている。アレスは、とりあえずオレに任せろよ、と言って、少女に、いきなり斬りかかったりしないように注意を与えてから、男の到来を待った。待ちながら、
「『酒杯を置く狭き場所に……点れ!』」
呪文を唱えた。手にしていた短剣から光が発せられて、一振りの剣となった。用心のためである。強い人間ほど慎重であること、ときにそれは臆病ととられかねないほど慎重であることを、アレスは知っていた。
男は、二人から三四歩離れたところで立ち止まった。眼鏡の中の細い目が、まるで虫でも見ているような傲岸な光を発していた。嫌な目である。とりあえず斬りかかってあとのことはあとから考えるか、と短気を起こしかけたアレスだったが、男の素生とまた一連の事情を知りたい気持ちが勝り、押さえた。
「手間をかけさせてくれたな」
男の口調にはいらだたしげな色があった。
「散歩は終わりだ、フタ。今すぐ研究所に戻るぞ」
エリシュカに声を投げる。
「フタ」とは、彼女のことらしい。
男の言葉に対するエリシュカの答えは、なかなかふるったものだった。
「一人で帰って。それがいやなら、死ぬことになる」
エリシュカの小柄な体からゆらゆらと殺気が立ち昇る。
アレスは剣を持ってない方の手でエリシュカをなだめようとした。殺気のおもむくまま斬りかかってもらうと、男が死ぬか、あるいは男の反撃をエリシュカが喰らうか、どちらかになる。どちらにしてもうまくない事態だ。
少女の頭をよしよしと撫でようとしたアレスの手は、狙いを誤って彼女の小さな鼻の辺りをぴたぴたしてしまった。男に油断なく目を向けていたせいである。アレスは、「なにすんの、先に斬られたいの?」という文句をぶつけられたが、エリシュカの殺気は多少治まったようだった。
「よく聞こえなかった。もう一回言ってくれないか」
男のまぶたがピクピクと痙攣していた。どうやらキレやすい性格であるらしい。
エリシュカは律儀にも、同じセリフをゆっくりはっきり発音してやった。
男はカッとまなじりを裂くと、
「ふざけるな!」
周囲を行きすぎる通行人に怪訝な目を向けさせるほどの大声を上げた。
「族に捨てられた小娘がいっぱしの口をきくな! 忘れたわけではないだろう。お前はお前の仲間からわれわれに売られた商品だ。人間ヅラするな、クズめ! お前には何の選択権もないのだ。お前は研究所の実験材料なんだよ、この――!」
言葉はそこまでしか続けられなかった。
男の顔は蒼白になった。いつの間にか首筋に白光が押し当てられている。すぐ近くに少年の顔があった。そうして、先ほどまで黒髪の少年がいたところには誰もいなかった。光の剣は、ほんの少し動かされるだけで、切っ先が首に当たる。男は呼吸をするのさえはばかられた。
アレスは男を見上げて言った。
「その辺のこと、詳しく聞かせろよ、おっさん。だが、言葉に気をつけた方がいいな。あんたもキレやすいタイプみたいだけど。多分、オレの方が上だ。郷里じゃ、『ぶちギレのアレス』ていう二つ名で有名だったんだ」
男からはアレスが踏みこんでくるのが全く見えなかった。まるで魔法のように目前に現れて自分に剣を突き付けている少年を、男は人外のものでも見るような目つきで見た。
「な、何者だ、貴様?」
「訊いてるのはこっちだ。あんたはもっぱら答える方だ。いいな? ルールを間違えるなよ」
「ま、待て、貴様は何か勘違いをしている」
「かもな。ただ、人のことを商品だ、クズだって言うヤツがクソヤロウだってことについて、勘違いはないね」
「お、お前はフタのことを知っているのか?」
「フタってエリシュカのことか? いまはまだイマイチだけど、生い先、チョー美人になりそうな女の子ってことしか知らない。でも、それだけで、あんたみたいな男に剣を向けるには十分な理由になるんだよ。『ボーイ・ミーツ・ガール』って言葉、知ってるだろ?」
男は首をそらして光の刃から少しでも遠ざかろうとしながら、
「よく聞け。わたしは、この国の太子の下で働いている者だ。わたしに刃を向けるということは、太子に、引いては国に反逆することになるのだぞ」
早口で言った。
男の長衣の胸元に、円形の鏡を模した紋章が飾られている。
それは確かにここミナン国の紋であった。