第1話「はじまりのはじまり」
嫌な夢を見て、アレスは目を覚ました。
目を覚ました瞬間に、まるで夏場の陽炎のごとく夢の記憶は消えた。ありがたいことである。反芻して苦い気持ちにならずにすんだ。
アレスの視界に夕日が地平線に向かってダイブしようとしている姿が映った。
「今日のオレの仕事は終わったぜ、お前もお家に帰りな、ボーイ」
その声なき声に勇気づけられるようにしてアレスは立ち上がると、軽く衣服を払うようにした。そのあと自分の黒髪を払う。泥と草が空中に舞った。アレスは川岸の土手になっている草地で寝ころんでいたのである。そのあと、彼は軽く体を左右に振った。まだまだ成長途上の体つきである。体をほぐし終わると、地面から革の鞘におさめられた短剣を拾い上げて、腰のベルトに鞘ごと吊るした。さらにもう一本、こちらは普通の長さの剣を背に負った。
「やっと起きたか」
アレスの黒の瞳に豊かな銀髪が映った。鋼の刃を思わせるような銀色である。溢れるように肩を覆う銀髪の中に青年の細面があって、青色の瞳が鋭さを秘めていた。背はアレスよりずっと高く、しかし細身である。
「ここでこのまま野宿する気かと思ったぞ」
「そう思うなら起こせよ」
「いや、なに。お前がなにやら眠りながらうめき声を上げているのが面白くて、ついな」
青年はにやりとした。その身にまとうクールさが少しゆるむ。
アレスは嫌な顔をした。
「なんか気持ちの悪い夢を見たんだよ。覚えてないけど。多分、アレだな。何かと戦ってたんだな」
「眠ってるときにも何かと戦うとは。人生をトコトン楽しみつくそうとする、その精神に乾杯したいものだ。蒸留酒でな」
アレスは青年のダジャレを無視した。
「そんな金は無い」
「無ければ作れ。そして、わたしに貢げ、虫けら」
あんまりな言い様であるが、アレスは口応えしなかった。長い付き合いなのである。何を言われても、ハイハイと答えていれば波風も立たない。これは、今泊まっている宿の主人である、結婚生活三十年の輝かしいキャリアを誇るサカグチ氏につい昨日教わったことであった。
銀髪の青年はため息をついた。
「路銀が底を尽きかけているのにこんな所でぐうたらと。神経を疑うな。というか、あるのか、神経? お前の血は、汗水たらして働く清く正しい人々と同じ色をしてるのか? 闇のようにどす黒いのではあるまいな。今日も今日とて、害獣退治を請け負ったはいいが、当の害獣を見つけられず、夢の中。使えないヤツだ。いっそ、一生、夢の中にいろと言ってやりたいよ。お前が永遠の眠りについてくれれば、わたしもパートナーを替えられる。お前のような者ではなく、清楚な黄金の髪の乙女とかな。それから、わたしのユーモアには反応しろ。お前のような暗い男の心を少しでも和ませてやろうとしている、わたしの情けが分からんか。まさに文字通り、『情けない』ヤツ。……さあ、笑え!」
「うるせええええええ!」
アレスは心の中で、ポンと腹を張って愛想笑いを浮かべた宿屋の主人・サカグチ氏を殴り飛ばした。よくよくと考えてみるまでもなく、アレスと銀髪の青年との関係は夫婦ではない。恋人同士でさえない。友情を結んでいるかというとそれだって怪しい。一番適切な言葉は「腐れ縁」かもしれないが、この言葉だって「縁」などという字が入っている分、まだまだ上等であるとアレスは思う。
そう。青年との関係を他人に説明するのは中々難しい。適切な言葉が浮かばない以上、それをするには、この青年が何もので、自分が何者で、そうしていつどこで出会って二人でどういう経験をしてきたかということを全てつまびらかにしなければならない。そんな面倒なことは御免である、とアレスは思う。そんなことをするくらいなら、最悪、兄弟だと思われたって構わない。
「ただし、オレが兄貴だけどな!」
「バカか、お前。わたしが何年生きていると思っている?」
「精神年齢的にはオレが上だ。今日から、アニキと敬え。ギン」
「わたしにはズーマという神聖な名前がある。変なあだ名をつけるな」
「いいだろ。ギンの方がかっこいいだろ」
「じゃあ、お前のことはバカと呼んでやろう」
「それ、あだ名じゃないだろ。ただの悪口じゃねーか」
「ほお、よく分かったな。よし、バカは撤回してアホにしてやろう」
それから五分ほど、口撃の応酬が続いたところで、ようやくアレスは自分がいかに不毛なことをしているかということに気がついた。腹がグウと切なげに鳴る。日は着実に沈みつつあって、アレスの影が長くなっていく。早いとこ町へ帰らないと、夜になってしまい締め出しを食らってしまう。日が落ちると用心のため町の門は閉まるのだ。
アレスは歩き出しながら、背中の剣の柄に手を伸ばした。
「売るか、コレ。二束三文の値打ちしかないが、路銀の足しになるだろ」
「お前……言っていいことと悪いことがあるぞ」
これまでとは打って変わってやけに真剣な青年の声を背に受けて満足したアレスが、冗談だよ、と言って柄から手を放したときのことである。
アレスが上がっていこうとした土手の上に人影が現れて、その影は足をもつれさせると、ゴロゴロゴロゴロ、アレスの目の前まで転がり落ちて来た。