第16話「とりあえず朝ごはん」
「じゃあ、そういうことで」
エリシュカは話は終わったと言わんばかりの口調でベッドから降りると、脇にきっちりと揃えられていた靴を履いた。
「ちょっと待てよ、エリシュカ」
そのまま出ていこうとする少女をアレスが止める。まだ何も事情を聞いていない。
エリシュカはぴたりと止まるとアレスの元に近寄って、さらに近寄った。吐息がかかるほどの距離まで来られて、アレスはうろたえた。
「え、な、なに?」
「リシュ」
「はい?」
「リシュって呼んでって言った」
「愛称で呼ぶほど仲が良い訳じゃないだろ。こっちは殺されかけたんだぞ」
「そういうことじゃない。エリシュカはわたしの本名。本名を呼んでいいのはごく限られた人だけ。親、姉妹、主君、それ以外だったら夫。わたしと結婚するなら呼んでもいいけど」
アレスは持ち前の負けん気を発揮した。実にしばしばその負けん気のおかげでこれまで苦難を背負ってきたのであるが、アレスはあんまり過去にとらわれない子である。
「キミみたいな可愛げのない子とだったら是非結婚したいね」
「じゃあ、わたしの夫になる?」
「『キミがオレの妻になる』が正しい」
「同じこと」
「いいや、違う。先にオレありき、だ。オレの理想は亭主関白だからな」
「テイシュカンパク……なに、それ?」
「知らないのか。夫の言うことを妻が何でもハイハイ聞くんだよ。けして逆らわない」
「わたしより弱いのに」
「何言ってんだよ。さっきのこと忘れたのか? さっきオレに負けたろ」
「負けてない。途中だった」
「剣突きつけられただろ。あれで終わりでしょ、普通」
「あそこから反撃できた」
「どっちにしてもだ。手加減したんだ。オレが本気になれば、キミなんか秒殺だね。いや、瞬殺。まばたき一つの間で倒せるね」
「ほんと?」
アレスは自信たっぷりにうなずいた。「女の子相手に何を威張っている、アホか、お前」というズーマの声が聞こえてきたが、無視した。彼女はただの女の子ではないのだ。そうして、それはすぐにその場で証明された。
エリシュカは、ほうほう、と感心したように首をうなずかせると、アレスから一歩離れた。何だか嫌な予感がしたのと少女のチュニックの裾が揺れたのはほぼ同時だった。反射的に出した腕に鋭い痺れが走る。アレスの腕は脇腹を狙った少女の蹴りを受け止めていた。細い脚のくせにやけに重たい一撃である。
「……おい、何のつもりだ?」
「試してみた」
エリシュカは事もなげに言うと、蹴り足を地につけたあと、体をふらふらさせた。アレスは少女が倒れそうになるところを支えてやった。支えてやりながら自分のこの人の良さを誰かに褒め称えて欲しいもんだとちらっと思ってみたりした。少女の額には脂汗がにじんでいた。
「もう少し休んでいた方がいいな、リシュ。君の体は今無茶ができる状態じゃない」
ズーマが言うと、エリシュカはアレスの腕の中で疲れたように、ふう、と息をついたあとどうにか自分の力で立ち上がった。
「休んでる時間はない。急がないと」
そう言って二三歩、歩いて、ドアに手をかけたところでがっくりと崩れ落ちた。どうやらさっきの蹴りで体力を使い切ったようである。近づいたアレスの耳に、
「……お腹空いた」
ぼそりとした声が流れてきた。アレスはズーマと顔を合わせてから、
「急ぐなら止めないけど。メシでも食ってったらどう? それにその寝巻同然の格好じゃ襲われるぞ。一応女の子なんだから髪を梳かして顔も洗えよ。あと、食べながらついでに事情も聞かせてくれ。何か力になれるなら助けてやるから」
小さな背に声を降らせた。
エリシュカは振り向くと、その青い瞳に戸惑いの色を浮かべた。
「なんでわたしに良くしてくれるの? 本当に結婚したいの?」
「キミみたいな可愛い子とだったら是非したいね。でも、それは置いといても、とりあえずキミのおかげで当座の生活費が稼げたわけだから、その御礼がしたい」
エリシュカは少し迷う素振りを見せたが、空腹に負けたのかアレスの誠意が伝わったのか――悲しいことにおそらくは前者である――うなずいてから立ち上がった。途端にふらりとするところをアレスが支える。アレスは食堂まで手を引いてやった。テーブルにつくまでの間、客の相手をしていたセンカに意味ありげな目をされて、アレスは首を捻った。銀髪の青年がニヤリとしたのは、前を歩くアレスからは見えない。エリシュカをテーブルにつかせると、アレスは彼女の分の食事を頼んで、ついでに自分の分も頼んだ。いったんはなくなった食欲がちょっとした運動をしたおかげで回復したようである。
エリシュカはその細い体に関わらず、大魚が小魚を飲み込むような勢いで食べに食べた。「食べられるときに食べておくのが鉄則」とまじめくさった顔で言う。何の鉄則なのか訊いてみたが答えてはもらえなかった。食べるのに忙しかったからである。
そうして小一時間ほど朝食が楽しまれてお茶になったが、結局エリシュカはお茶を飲み終わってリラックスしてからも、事情を話そうとはしなかった。