第145話「城門前の女の子」
目を覚ましたアレスは、バッと周囲を確認したが、ベッドの中は自分ひとりである。エリシュカが潜り込んで来ているのではないかと思ったのだが、そんなことはなかったらしい。あれからぐっすり眠って夜中には目を覚まさなかったのか、それとも、淑女のたしなみというものを覚えたのか、おそらく後者であるまいか、とアレスは期待したが、その期待は朝食時に破られた。
「食べさせて」
あーん、と口を開ける少女の傍らで、アレスは周囲を見回した。皆、誰もこちらを気にしていない様子でもくもくと朝食に向かっている。朝ごはんは一日の活力。無心で向かうべし。そういう心構えでいるのか、それともアレスのことに興味が無いのか。悲しいことながら、これは後者に違いあるまい、とアレスは確信して、それは揺るがなかった。
アレスはちぎったパンを隣にいる少女の口に運んでやった。もぐもぐもぐ。それから、またパンを一口大にちぎり、隣の少女の口に入れる。もぐもーぐ。それを何回か繰り返したところで、ようやくパンが一つなくなった。
エリシュカは、小魚を飲み込もうとしている海獣ででもあるかのように大きく口をあけている。
アレスはエリシュカの額に手を当てた。熱は無いようである。
「キミはシラフでこれができる子なのか。見くびってたよ」
アレスはパンをもう一つ食べさせてやったあと、干し肉やチーズを少女の口に放りこんだ。そうして、彼女が満足すると、他のメンバーの食事が終わっていた。アレスは空腹とパンを抱えながら、迎えに来たキュリオに向かった。
「そろそろ出発ってことでよろしいでーすか?」
にこにこ笑顔のキュリオに、アレスはパンを口に入れながら、うなずいた。
「お食事まだお済みでなかったですか?」
「いや、問題ない。オレ以外はみな済んでいる」
「はあ……いじめられてるんですか?」
「そんなところだ。このパーティの中ではオレが一番下っ端だからな」
「ナヴィンからリーダーだって聞いてるんですけどねー」
「リーダーであり、下っ端でもある。それがオレだ」
「なるほど!」
ナヴィンと言えば、彼女の部下たちがどうなったか、ふと気まぐれを起こしてみたところ、ナヴィン隊はみな無事であるという答えが返って来た。その部下を従えて、ナヴィンは少し休んでからまたミナンとの国境に戻るらしい。お疲れ様である。
宿舎を出ると、キュリオは五名ほどの部下を従えて、二乗の馬車を先導した。
空は灰色であり、空気は涼しい。
ゆっくりと半日ほどかけたところに王都ルゼリアの内壁がある。
「ま、すぐに王女に面会ってわけにはいかないだろう。喪中でもあることだし。少し待たされるかもしれないな」
アレスはルジェの隣に座っている。
ルジェは穏やかに手綱を握っている。
「平気です。いくらでも待ちます」
「オソが言ってたが、ミナンはお前を必要とする時が来るかもしれない。時が来ればミナンに帰れる」
「さあ、どうでしょうか」
そう言って静かに笑うルジェの気持ちを推測してみれば、その想像の図はしなびている。ルジェは、兄である太子と事をかまえる気は無い。国を騒がせたくないからだ。太子が王になれば、「王位奪取競争」は終わるわけだが、そうなった場合に太子がルジェを国に戻すかと言えば、その可能性は低い。結局、このままだとルジェは国に帰れないことになる。この圧倒的な不利を覆すためには、それこそ大地の神の加護か、あるいは神知の策略が必要となるだろう。
アレスは口をつぐんで、そよと吹く風に身を任せた。ルジェのことは既に手を離れたのである。にもかかわらず、余計な口を利いてしまい、しかし、アレスはそのこと自体に悔いは無い。
キュリオが馬を寄せて来た。
「ご機嫌いかがですかー、王子?」
「結構です」ルジェは愛想が良い。
「聞いたところによると、『竜勇士団』の一個小隊がやられたそうだな。本当か?」
アレスが言った。
「『竜勇士団』をご存知なんですか?」
「ちょっとな」
「なるほどー」
「それで?」
「機密事項なので言えませんねー」
「『竜勇士団』をやったということは、なかなかの強さだな。それも一個小隊ってのは。一個小隊で他国の一個大隊ともやり合える実力があるんだけどな」
半日ほどゆっくりと進んでいったところである。
徐々に天気が良くなって、雲の切れ間から光がのぞいてきていた。
「いやに静かだな」
遠目に見えるルゼリアの内壁にひっそりとした色がある。
近づいていくと、内壁に設けられた城門前に小さな影があった。
アレスの胸がどくんと大きく鳴った。
「なんでしょうかねー、あの子。ちょっと見てきます」
キュリオがさっと馬を走らせた。馬から降りて、影を確かめるようにすると、「うわっ」という感じで身をのけぞらせるのが見えた。それから、こちらに向かって、両腕で頭の上にマルを作るようにした。近づいてきてもOKの合図である。
風はやんでいる。
少し離れたところで馬車を止めて歩いて行くと、小柄な影は少女の形になった。
少女は粗衣を身につけている。
豊かな緋色の髪が光を受けて鮮やかである。




