第11話「怖いよ、センカちゃん」
男の体は、大きな弧を描いて宙を前方に回り、そうしてバチーンという音とともに食堂の床に沈んだ。背をしたたかに打ちつけられた男は、苦しげなうめき声を上げた。
「手を出したのはそっちが先ですからね」
男を見下ろすような格好でセンカ嬢が言った。男は、もう一人の男――アレスに殴られたほう――と目語したのち、センカに手を伸ばしていたのだった。彼の頭の中では、相棒が正義感ぶった馬鹿な小僧を殴り倒してくれるだろうから、自分は美少女の肩を抱き寄せるというまことに結構な役を演じてやろう、グヘヘなどといういやらしい考えがあった。そうして手を伸ばしたところ、目の前の少女が信じられない身のこなしで一歩踏みこんで来て、身を沈ませた。そのあと、男は強烈な一撃を顎に受けた。それが少女が打ち上げた掌底であったことまでは男には分からない。一瞬後、男の目に宿の天井が映った。
脳を縦にゆさぶられて平衡感覚を失った男を、センカは男のシャツの胸元を片手でつかみ、もう片方の手で男の袖口を引き絞って投げ飛ばしたのである。男は自分の体が重力を離れて宙に浮くという得がたい経験をして、それから地に落ちた。束の間の空中浮遊であった。
それはそれは美しい背負い投げである。
「あれほどキレのある投げはなかなか見られるものではない。しかも、受け身を取らせない全く実戦向けの投げ方だ。あの男に同情するよ」
とは、近くにいたズーマが後でもらした言である。
突然起こった喧嘩……というよりは、実力差があり過ぎて、多分にアレス・センカ組の一方的な暴行のように見える行いに、食堂にいた数名の客がざわざわし始めた。特に近くのテーブルにいた客などは、恐ろしげな形相で席を立った。
そこへサカグチ氏が腹を揺らしながら小走りに走って来た。二人の男たちを後ろに従えている。なかなか体格の良い男たちだった。おそらく従業員だろう。
センカは男の体から手を放すと、汚いものに触れたあとででもあるかのように、軽く手を払ったのち、客に向かってペコリと頭を下げた。
説明がなくても状況が分かるのか、サカグチ氏はセンカには何も言わず、従業員二人に命じてすぐに男二人を店の外に連れ出すように指示を与えた。背と腹に痛撃を受けた男たちはほとんど死んだようになって、二人の従業員に引きずられるにまかせていた。彼らが食堂を出ていくのを見届けたあと、サカグチ氏は客に向かって、深々と頭を下げ、騒ぎを起こしたお詫びとして食事の料金をタダにする旨を伝えた。
センカも父の横でもう一度頭を下げたあと、
「ありがとうございました」
とアレスに爽やかな笑みを向けて、白い歯をのぞかせた。
本来ならばその言葉を、「いや、当然のことをしたまでですから」という感じで鷹揚に受け取るはずであったが、どうやらアレスは自分が余計なことをしたらしいことに気がついた。彼女は初めから、男二人を相手取って打ち倒し、そうして宿を追い出すつもりだったのである。そうでないと、男たちが何もしていないうち――じろじろお尻を見ていたことを除けばだが――から喧嘩を売りに行くような言葉を投げつけたことの理由が立たない。
「あの二人は三日前に泊まり始めてからずっと『いくら払えば付き合ってくれるんだ』とかって、つきまとってきてうるさくて。他のお客様にも迷惑をかけるし。もういい加減追い出したかったから、追い出すきっかけを作ったんです。ウチはお客を選ぶ宿ですからね。特に女に付きまとうやつとお金を払わないやつは客とはみなしません。何だったら二度とここの敷居をまたぐ気を起させないように、腕の一、二本でも折ってやろうかと思ってたんですけれど。あなたがいらしたからあんまり派手なことになりませんでした。運が良かったですね、あのふたり」
センカはにっこりとした笑みで、実にすさまじいことを淡々と言い放ち、アレスの推測を裏付けてくれた。
アレスはそれからというもの彼女を凝視するのをやめ、ちらちらっと見るのもできる限り控えるようにした。アレスは剣士である。利き腕でも折られたら大変なことになってしまう。後で知ったことだが、センカが使ったのは「ヤワラ」という無手の格闘術らしい。小さい頃からせっせと町の道場に通っていた彼女は、天稟も手伝って、齢十六で既に師範並みの腕前であるそうだ。こんな平和な町で格闘術というのもピンと来ないが、平時にも戦への備えを怠らないような鋭敏な感覚の持ち主はどこにでも存在するということなのだろう。
これがきっかけになって、アレスは晴れてセンカと会話を楽しめる仲になったが、この街で所帯を持つことはすっぱりと諦めた。男二人に対して一歩も引かないような女丈夫と付き合う自信が無い。この大地はかくも自分に苦難を与えるのか、とアレスは失恋の余韻にしばし浸ってから、焦りを覚えた。はやいとこ宿泊料を稼がないとヤバイことになるよ!