第95話「監獄襲撃の意義」
聞きたいことが聞けて用件が済んだのだろう、長は外套を翻すと、部下を伴って宿を出た。その前に、情報料だと言って、結構な額の詰まった布袋をアレスに手渡した。
「正直、今、厳しいから遠慮なく貰っとくけど、いいのか、こんなに? まあ、やっぱりダメだっていってももう返さないけどな」
ずっしりとした重みを感じさせる布袋に反比例してふわふわと軽くなる気分を抑えようとしつつ、しかし、あまり成功していないほくほくした笑顔でアレスが確かめるように訊くと、
「今の情報にはそれくらいの価値がある。別に多くはない」
長は真面目な顔で答えた。
エリシュカの話が本当なら、ここイードリの監獄を襲撃したのは呪式研究所関係者ということになり、それはとりもなおさず、国家機関が自由都市を攻撃したということに等しい。自由都市とはミナン国内にありながら自治を許されている都市であって、ミナン国の統治下にはあるものの独立した小国家と言ってさしつかえないほどの自由裁量を持っている。それを国家機関が攻撃するということは、戦争行為であると取られても文句は言えない。
大スクープであった。
「後はこちらで事実関係を詰める。研究所が何の為にリスクを犯してまで山賊団を自由にしたのかは不明だが、ともかく、そもそも山賊団が縄についたのは婿殿が原因だからな。一応気をつけることだ」
「りょーかい」
「ヴァレンスまでの幸運を祈る」
「運に頼る気なんか無いね」
「結構だ」
長の背を見送りながら、アレスは旅費の問題が鮮やかに解決されて、一つ心配ごとを減らすことができた。ぜんたいどうして研究所が山賊数名を救い出すために、国の直轄地でない都市に襲撃などかけたのかはさっぱり理解できなかったが、それは考えても仕方がないことである。もしかしたら、ルジェが答えをくれるかもしれなかったが、当の彼は椅子に座ったままうつらうつらしていた。
アレスはルジェを揺さぶって起こすと部屋に行くように言った。オソにも同様にすると、二人は揃ってゾンビのように揺らりと立ち上がり階上へと続く階段に向かった。階段でゴロゴロとすっころばれて怪我でもされても面倒である。アレスは二人の介護を買って出て、一緒に二階まで付いていった。
二人を一室に放り込んでから、隣の部屋に入り、剣と短剣をテーブルの上に乗せる。それから、久しぶりにベッドの感触を味わうと、少し固いが地面や馬車の中よりはずっと快適だった。明日からしばらくはまたくつろげない毎日がやってくる。今のうちにぐっすりと休んでおこうと思ったところで、ギイ、と戸が開き、小柄な影を見たかと思うと、それは止める間もなくずいずいと室内に入って来て上衣を脱ぎ、アレスのベッドの中に滑り込んできた。
ベッドの中に清らかな香が漂った。
「ちょっと、エリシュカさん」
アレスは年頃の少女のはしたない真似をたしなめようと、目の前にある小さな背を軽く叩いた。
薄い下着越しに触れた肌の感触が冷ややかである。
エリシュカは、「お休み、アレス」と言って、毛布を自分の体に巻き付けた。
「いや、お休みじゃないんだよ。起きろよ。キミとヤナの部屋は隣だ」
「ここでいい」
「ここはオレが寝るの」
「じゃあ、寝れば」
「キミがいたら眠れないだろ。一睡もできなくなっちゃうだろ」
「じゃあ、起きてれば」
「おい……たく」
アレスもいい加減疲れていて、それ以上争う気力は無かった。仕方なく身を起こすと、少女の細身をまたぐようにしてベッドを出る。いつぞやエリシュカと一緒に寝たことがあったが、あれはアレスの知らないところで行われたことであって、けして本意ではない。
ベッドを出て一歩あるこうとしたところで、アレスは前につんのめりそうになった。服の裾が何かに引っかかったようである。前にも同じようなことがあったことを思い出したアレスのその想像通り、それはエリシュカの手だった。
「寝るまでここにいて」
それはどこか甘えを含んだような声で、アレスはどきりとした。はきはきとして勝気な彼女らしくない。そのギャップに、アレスは大人しくベッドに腰を下ろすしかなかった。
「どうかしたのか?」
「……分からない」
まるで雲間からもれる月光のような頼りない声だった。アレスは手を伸ばしてエリシュカの頭を撫でた。そうしてやるのがいいような気がしたのである。しばらくして、
「……悲しいのかも」
自信の無いような口調でエリシュカは静かに口を開いた。
「悲しい?」
「うん」
「何が?」
「死んだことが」
尋常でない言葉である。
アレスは詰問口調にならないように気をつけた。
「死んだ……って、誰が?」
「ミツとヨン。多分だけど」
「さっき言ってた研究所の被験者の子か。でも、死んだっていうのは?」
話によると一行は南門から逃げ出したそうである。その後の生死は分かりようがない。
「力を開放したら、その力に耐えられなくて死ぬの。研究所の実験体は、ただひとり姉さまを除いて、みんな失敗作だから」
エリシュカの髪に触れていたアレスの手が強ばった。