プロローグ
「始めてくれ」
しわがれた声が響く。
声に応じてきびきびと動きだす男たち。
だだっぴろい部屋である。室内の運動場を想像してもらえば良い。白い壁と白い天井、ねずみ色の床には調度らしいものは見えない。窓さえないのはここが地下に造られたものだからである。灯り取りはないくせに、室内は皓々としていた。天井付近に幾つも浮いている光球のせいである。それは、魔法で作られた灯りだった。
広い部屋の中央あたりに、一人の若い女が立っている。飾り気のない青いドレスは背中の部分が大胆に開いており、そこから覗く白い肌はまるで光球のひかりを集めてできたものででもあるかのように輝いていた。その肌の白さと好対照を為すような濃い黒髪が肩まで落ちている。
女を横から見るような位置で、壁際に初老の男が立っていた。先のしわがれた声の持ち主である。痩せた体を染み一つない綺麗な白衣に整然と包んでいたが、そのくせ白髪混じりの髭と髪はもしゃもしゃと伸ばされておりいささか清潔感に欠ける。何ともアンバランスな印象を与える男だった。男の後ろに、まるで師に仕える弟子のような風情で、何人かの白衣姿の男たちが立っていた。初老の男がリラックスしているのに対して、後ろの男たちは一様に緊張した面持ちである。
ガラガラガラガラ。
馬車の荷台ほどもある大きな箱が、ドレスの女へと向かっている。箱は車輪付きの台座の上に乗っていて、台座につけられた二本の綱を、一本に二人の男たちがついて引いているのだった。箱には黒い布が被せられていた。やがて、台座は、女から二十歩ほど離れたところで静かに止まった。
男たちの中のリーダー格らしき者が、白衣の初老の男に向かって手を挙げた。向こうから手が挙げ返されるのを確認すると、男は他の男たちとともに黒布をバサッと一息にはぎ取った。箱は四方をぐるりと鉄格子で囲まれ、底と天井の部分が鉄板で作られた檻であった。随分と強固な作りだが、閉じ込められているモノを見れば、納得するだろう。
まるで炎のように見える朱色の毛並みをしなやかな体躯にまとった「リーグル」と呼ばれる肉食獣である。鋭い爪と牙を持ち、額に一本の角が生えている。陸上では最強を誇る獣であり、地方によってはその力を理由に神格化されて祭られるほどの存在だった。そんな獣が二頭もいるのだから、ぞっとしない光景である。檻の外の人間の思惑とは関係無い様子で、檻の中の二頭は悠々と寝そべっている。檻の中に閉じ込められているというよりは、自ら望んでそこにいるようにさえ見える優雅さである。
黒布を取って箱を露わにした先の男たちは今度は、檻の一方の格子に近づいた。錠を外したあと、格子を開いていく。格子が全て開いたのち、男たちはさっと散った。残ったリーダー格の男が一声かけると、二頭のリーグルはのっそりと大儀そうに体を持ち上げ、ゆっくりと檻から出た。自分の体を持て余しているような緩慢な動作である。男が檻から離れてもう一声かけると、リーグルたちは男の前まで来て歩を止めた。どうやらこの男は調教師らしい。
調教師の男は、そこから二十歩ほど離れた所にいる女に目を向けた。女はそこに変わらず立っている。女の視線は、男とそのしもべである二頭のリーグルに向けられていたが、瞳には何の興味の色も無かった。
男の叫ぶような声が飛んだ。
男が風を感じるとともに、二つの影が消えた。
二頭のリーグルは猛然とドレスの女へと向かった。巨体のくせに恐ろしいほどの敏捷性である。まばたき一つの間に、女との間の空間を無造作に潰した。
女は一歩も動かなかった。猛獣が迫ってきて足がすくんで、という様子では無い。何らの感情の色も表してはいなかった。女の虚ろな瞳に赤い獣の姿が映っている。
先の男の声はリーグルへの命令だったのだが、それがどのような命令だったのかはもはや明らかである。
女の視界から、獣の姿が消えた。
二頭のリーグルが宙に躍る。
四本分の前肢にある鋭い爪が女にかかるかと思われたまさにその瞬間、女の唇が動いた。
澄んだ声である。
声と同時にまばゆいほどの閃光が女の頭上で上がった。一瞬後、どしんという音が聞こえ、何か重量のあるものが床に落ちたのが分かった。音は立て続けに二度上がった。
音の響きが消え、室内に静けさが染みた。
女は変わらず虚ろな瞳を正面に向けている。
その視界の端に、巨体の獣が二頭、力なく倒れた姿が映っていた。