傷
幸福とは、傷を隠す瘡蓋ではなく、傷そのものだった。
我々は通常、充足を善とし、欠落を悪と定義する。自己を緩やかに包み込む共同体の膜を生成し続け、そこに安住することを幸福と呼ぶ。しかし、この完結した個体は、他者を拒絶する装置に等しい。エゴや虚飾という膜は、内なる傷を隠蔽するための機構に過ぎないのだ。“転倒”という不慮の事故によってその天蓋が剥がれ落ちるとき、我々は初めて、その存在に気づく。傷とは後天的な損傷などではなく、剥き出しになった自己そのものであった。
その瞬間、傷は内界と外界を接続する門へと変質する。本来、自己とは皮膚を強固な防御壁とした閉鎖空間である。そこでの他者は、領域を脅かす侵入者か、あるいは自己を評価する観客に過ぎない。自己を一定の状態に保つことが平穏であり、他者と繋がれないことは埋めるべき欠乏としての孤独をもたらす。この状態での幸福とは、外敵を排除し、自己の輪郭を維持し続ける静的な安定を指す。
対して、傷が露呈した自己にとって、皮膚は世界と交感するための通路となる。他者はもはや外部の存在ではなく、自身の内面から湧き出し、固定化された自己を侵食する波面となる。膜は解体され、ただ傷だけが特筆的に浮かび上がる。いくら奥深くへ分け入ったところで、そこには傷しかない。他者の眼差しは膜を見事に解体するが、決してその傷を癒しはしない。だが、もはや傷は誰かのものではなく、孤独もまた欠落ではなくなる。自己と他者の境界がどろどろと融解していくその痛みは、何物にも代えがたい不快感と計り知れないほどの失望をもたらすだろう。
しかし、「それ」は傷を介してしか共有できない。削ぎ落とされたその核心は、触れれば崩れてしまうほど脆く、あまりにも弱く、耐えられないほど痛々しく、そして残酷なほどに純粋だからだ。




