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ファームステイ

週末になると僕とチエミちゃん、そしてルミコさんの三人でどこかへ出かけるようになっていた。

六月の中旬、チエミちゃんが僕の隣に来てこう言った。

「ねぇ、今度の週末に、ファームステイに行ってみない?」

「楽しそうだね。行こうよ」と僕は答えた。

僕はいつものようにみんなで出かけるものだとばかり思っていた。

しかし彼女の立てた計画の中に、みんなでという言葉は無かった。

僕と彼女の二人きりでということだ。

うれしかった。その週末、僕たちは二人でバスに乗ってファームステイに出かけた。シドニーから二時間ほど揺られた場所だったと思う。一泊二日の小旅行だ。

ファームステイとはいっても、たどり着いたのは農場というよりは酪農家の住まいだった。見渡す限りの草原の中、小高い丘の上に煙突のついた平屋が一軒だけ、まるで誰かに忘れ去られたみたいにポツリと建っていた。

僕たちを迎えてくれたのは、穏やかな雰囲気の初老の夫婦だった。

到着した日の午後、夫の方が僕たちを白いトヨタ・ランドクルーザーの助手席に乗せ、牧場を案内してくれた。それは気が遠くなるほど広大な牧場だった。彼は草原の中の急な斜面を駆け上がったり、ひどくぬかるんだ悪路を突き進んだりして、僕たちを楽しませようとしてくれた。ちょっとした遊園地のアトラクションのようでもあった。

夕食は夫婦が用意してくれた家庭料理を、暖炉のあるダイニングで一緒に囲んだ。僕たちに与えられたのは、そのダイニングのすぐ隣にある部屋だった。部屋は広く、中央にはダブルベッドがひとつドンと置いてあり、奥の壁際におまけのように細い鉄パイプで作られた二段ベッドが置かれていた。突き当たりには、僕たち専用の小さなバスルームが備わっていた。

部屋に入った時に二人で顔を見合わせた。

まだ二人で同じベッドを使う関係ではなかった。

僕は二段ベッドの一段目に腰をおろし、ここで眠るよと言った。

そして彼女はダブルベッドを使うことにした。

夕食を終えると、僕たちはダイニングにある暖炉の前に並んで座った。暖炉にはまだ、小さな火がくべられていた。

六月中旬の南半球の夜は寒かった。暖炉の火だけでは寒さを凌げなかった。

僕たちは一枚の毛布を持ってきて、それを二人で分け合うようにして肩から羽織った。

部屋の隅に小さな灯りがひとつあるだけで、窓の外は濃い闇に包まれていた。暖炉の炎の光だけが、僕たちの横顔を交互に照らし出していた。

それはとても静かな夜だった。

僕はそれまで誰にも話したことのなかったいくつかの事柄を、彼女に向かってひとつひとつ言葉にしてみることにした。日本で以前の恋人と別れ、ひどく混乱し、暗い淵を彷徨っていたこと。

日本という場所から離れたかったこと。

そして、僕自身の内側にある「子供の部分」を切り捨て、大人にならなければならないと感じていたこと。

彼女は何も言わず、ただ静かに僕の言葉を聴いていた。

彼女の眼差しはずっと暖炉に向けられていた。

彼女の目はどこか悲しそうだった。隣に座って静かに話を聞いていた彼女は、小さな声で「私もなの」と呟いた。

それからゆっくりと、どうして日本を離れてオーストラリアに来ているのか、その理由を語り始めた。

彼女には日本に恋人がいた。将来を真剣に考えていた。意を決して父親に打ち明け、彼と結婚したいと伝えた。

しかし、父親は頑として認めなかった。相手が十歳年上で、離婚経験があり、さらに前の結婚の間に子供がいる、それが一番大きな理由だった。

それでも諦めきれない彼女が、何度も父親に訴えかけるうち、家の中の空気はどんどん重苦しくなっていった。

父親は不機嫌そのものになり、口をきくことも、目を合わせることさえもなくなった。ある時は彼女に手をあげる事もあった。

彼女は「何回も顔をひっぱたかれた」と言った。家の中にはいつも険悪な雰囲気が漂っていた。

そんなある日、年の離れた妹が、怒った顔でこう言った。

「お姉ちゃんなんて、おらんくなってまえばええのに!」

その言葉が彼女の胸に突き刺さった。

彼女は子供の頃から父親が大好きだった。父が結婚に反対する気持ちも十分に理解していた。

ただ彼が好きだという気持ちを、どうしてもやめることができなかった。

彼女にはチハルさんという幼馴染みがいた。同い年で、家族ぐるみの付き合いを続けてきた親友だった。

そのチハルさんが、ちょうどワーキングホリデーでオーストラリアに滞在していた。

彼女は今の行き止まりのような状況を、チハルさんにすべて打ち明けた。

「いっぺん日本を離れて生活してみたら?」

それがチハルさんの提案だった。

彼女は恋人に別れを告げ、一人で日本を離れることを決めた。

チハルさんが現地にいるという事実が、頑固な彼女の父親を安心させた。

「チハルがおらんかったら、来れんかった」と彼女は言った。

彼女の話を最後まで聞き終えて、僕は何て答えればいいのかわからなかった。

彼女が僕よりもずっと深い場所で、ずっと複雑に傷ついていることを、僕はその時初めて知った。

適切な言葉を探そうとしたけれど、それはどこにも見当たらなかった。

僕にできるのは、ただ隣に座って彼女の言葉を静かに受け止めること、それだけだった。

それと同時に、僕の心は小さく、不規則に揺れ動いていた。

彼女が語る言葉の端々に、まだ拭いきれない彼への想いが残っていることを感じ取ってしまったからだ。

僕たちは部屋に戻り、それぞれのベッドに潜り込んだ。

そして互いに何も言わないまま深い眠りについた。

翌朝、「アキバくん」という小さな呼ぶ声で僕は目を覚ました。

被っていた毛布の端から顔を出すと、僕のベッドの脇に一枚の毛布を羽織ったチエミちゃんが立っていた。

「おはよう」と僕は言った。

「目が覚めた時、アキバくんがどこかへ行ってまってまったんじゃないかと思って、ちょっと怖かった」と彼女は言った。

彼女がベッドのそばまで来てみると、僕は毛布の中で体を丸め、石のように静かに眠っていたのだという。

「寒ないの?」と彼女は尋ねた。

言われてみれば、部屋の空気は昨夜よりも寒く凍てついていた。

「寒い」と僕は答えた。

「こっちに来てもいいよ」と彼女はごく自然に言った。

僕は彼女のベッドに潜り込み、その背中側から彼女の身体を静かに抱きしめた。

とても暖かかった。

彼女の柔らかなぬくもりは、僕の冷えた身体だけでなく、心の奥底に沈んでいたわだかまりさえも、ゆっくりと解きほぐしてくれるようだった。

僕たちはその時、初めてのキスをした。

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