キャンベラ
ブルーマウンテンズへの旅をきっかけに、僕とチエミちゃんの距離は少しだけ縮まった。
週末のボンダイ・ビーチはいつも何かしらのイベントで賑わっていて、僕たちは英会話教室の仲間たちと連れ立ってそこへ出かけた。
彼女の隣にはいつもおっとりとしたルミコさんがいて、いつも僕はその二人のそばに身を置いた。
アサハラさんが再びレンタカーを借りる計画を立て、今度はキャンベラを目指すことになった。
シドニーから南西に約三百キロ。
オーストラリアの首都だ。
前回の五人に、名古屋からワーキングホリデーでやってきた新しいシェアメイト二人を加えた、総勢七人での旅行となった。
今回アサハラさんが用意したのは五人乗りのセダンだった。
溢れたサイキさんと名古屋から来た一人は、バイクに乗って行くことにした。
サイキさんのバイクは、この地で手に入れた赤いカワサキ・Z550GPだ。
シドニーの喧騒を抜けると、風景は一変した。
赤い土の大地の真ん中に、ただ一本のアスファルトが地平線まで突き抜けていた。
外灯もなければ信号機もない。
時折現れるのは、飛び出し注意を促すカンガルーの標識だけだ。
僕はその荒涼とした眺めに、子供の頃に観た映画『マッドマックス』の世界を重ね合わせていた。
道中、運転に疲れたサイキさんが「誰か代わってくれへん?」と弱音を吐いた。
僕は迷わず「僕が代わるよ」と手を挙げた。
本当のことを言えば、当時の僕は原付免許しか持っていなかった。
日本で乗っていたのもホンダの50ccだけだ。
初めて跨った550ccのシートは、驚くほど大きく、重厚だった。
僕はクラッチを握り、慎重に一速へギアを落とし、ゆっくりとクラッチを繋いだ。
基本の操作は原付と何も変わらない。
バイクは滑らかに、力強く前へと進み始めた。
数百メートルも走れば、大排気量の感覚は僕の身体に馴染んでいった。
最初は心配そうに見ていたサイキさんだったが、「アキバくん、上手だね」と感心したように言った。
僕は小さく笑いながらサイキさんの顔を見返して「乗りやすいバイクだね」と答えた。
キャンベラの街に到着した僕たちは、オーストラリア戦争記念館を訪れた。
折よく日本からの団体ツアーと居合わせ、僕たちは団体ツアーの後ろについて回り、日本語の解説に耳を傾けた。
記念館の広大な空間には、過去の大戦で使われた戦車や、翼を休めた飛行機たちが、沈黙を守ったまま展示されていた。
そこでガイドが語る歴史の断片に触れ、僕は初めてひとつの歴史を知った。
第二次世界大戦という巨大なうねりの中で、日本とオーストラリアがかつて敵国として刃を交えていたという事実だ。
展示物の中に、日本軍の特殊潜航艇があった。
それは一人か二人しか乗ることのできない、鯨の子供のように小さな潜水艦だった。
一九四二年にシドニー湾を襲撃し、そこで拿捕されたものだという。
ガイドはその時の緊迫した様子を、淡々とした、けれど重みのある言葉で説明してくれた。
網に絡まり、海上に引き揚げられた潜水艦。
そのハッチが開き、中から一人の日本兵が姿を現した。
周囲を囲んだオーストラリアの軍艦から、冷徹なサーチライトが一斉に浴びせられた。
その光の中で日本兵がとった行動は、その場にいた兵士たちの記憶に、消えない恐怖と驚きを刻み込むことになった。
日本兵は上着を捲り上げ、その剥き出しの腹に短刀を突き立て、切腹して自害したのだという。
死という結末以上に、彼らを戦慄させたのはその精神性だった。
オーストラリアの人々にとって、死を目前にして自らの手で命を絶つその作法は、戦争という論理を超えた、理解しがたい異質な狂気として映った。
その静かな展示室で、僕の知らなかった歴史、そこから今に続く時の流れを感じていた。
ガイドの案内が終わり、戦争記念館の入口近くにある売店で、僕はとても面白い光景を目にした。
さきほどの日本人ツアーの一行にいた、関西弁の年配のオジサンが、カメラのフィルムを買おうとしていた。僕はどうするんだろうと思って眺めていた。
すると彼は一切の躊躇もなく、ただその場にある空気だけを味方につけて店員に話しかけた。
「姉ちゃん、フィルムくれや。24枚撮りやで〜」
それは驚くほど迷いのない、純粋な意志の表現だった。
店員も戸惑うどころか、彼の要求を正確に理解し、事もなげにフィルムを差し出した。
僕はその光景を眺めながら、目から鱗が落ちるような思いがした。
文法や語彙といった教科書に書かれたものより、もっと手前にあるもの。
心が通じ合おうとする強い熱量さえあれば、言葉という壁なんて案外簡単に乗り越えられるのかもしれない。僕は、コミュニケーションというものの本質を学んだ気がした。




