ポニーテールの女の子
一九八九年三月上旬、僕はオークランドからシドニー行きの飛行機に乗った。
三月のシドニーにはまだ、夏の陽気が居座っていた。
オークランドに比べれば、そこはずいぶんと巨大で、都会的な手触りを持った街だった。
僕は『地球の歩き方』を開き、バックパッカー向けの安宿を探した。
地下鉄に揺られて辿り着いたのは、キングスクロス駅の近くにある宿だった。
お世辞にも清潔とは言い難い場所で、一泊の料金は確か十五ドルくらいだったと思う。
狭い部屋には四台の二段ベッドが押し込まれていて、そこは男女相部屋という仕組みになっていた。
僕に割り当てられたのは、その中の一台の下段だった。
すぐ上のベッドには、二十代後半と思われる体格の良いオーストラリア人の女性が使用していた。
その日の夜中、ふとした物音で僕は目を覚ました。
暗闇に目が慣れてくると、僕のベッドのすぐ目の前にある二人掛けのソファで、同じ部屋の男女がセックスしている真っ最中だった。
僕はひどく驚き、とんでもない宿を選んでしまったと後悔しながらシーツの中で身を丸めた。
翌朝、目が覚めると二段目を使っていた体格の良い女性が梯子を使って降りてきて、勢いよくTシャツを脱ぎ大きな胸を出して目の前で着替えはじめた。
僕はうんざりした気持ちのまま、とにかく一刻も早く、もっとまともな新しい住処を探し出さなければならないと心に決めた。
シドニーで住む場所を見つけるのは意外と簡単だった。
僕は『地球の歩き方』のページを捲り、YMCAの掲示板へと足を運んだ。
そこには、たくさんのシェアメイト募集のはり紙が貼られていた。
僕はその中から一枚を選び取り、近くの公衆電話から記された番号をダイヤルした。
受話器の向こうからは、関西弁の男の声が聞こえてきた。
僕がシェアメイトの件について尋ねると「いつ来てもかまへんよ」と彼は明るい声で言ってくれた。
その日のうちに僕は、キングスクロス駅からボンダイ・ジャンクション駅へと向かい、そこからボンダイ・ビーチ行きのバスに乗り換えた。
教えてもらっていたバス停に到着すると、これからシェアメイトになる関西弁の男が僕を待ってくれていた。ビーチ沿いの停留所から歩いて五分ほど。
そこには、二階建ての古い煉瓦造りのフラットが、同じような佇まいの建物たちと肩を並べるようにして立っていた。
僕たちの部屋は二階の角にあり、間取りは2LDK。
僕を含めて、六人の男たちと共同生活することになった。
それぞれの部屋には床に直接大きなマットレスが一つずつ置かれていた。
つまり、一つのマットレスを三人の男で共有して眠るということだ。
関西弁の男は、少し申し訳なさそうに「毛布はないで」と言った。
「大丈夫です、寝袋を持ってきてるんで」と僕は答えた。
フラットのシェアメイト全員の名前を、今ではもう思い出すことができない。
みんな僕と同じようにワーキングホリデーを利用して、この街へ辿り着いた人達だった。
一番年上の人は確か二十六歳くらいで、市内の免税店でフルタイムの仕事をこなしていた。
もう一人の人は、ただ波に乗ることだけを目的としてここへ来ていた。
ボンダイ・ビーチに打ち寄せる波は、サーファーにとっては神が与えた最高の楽園のような場所だった。
二十三歳くらいの男は、カワサキのZ1000という、デカくて硬派なバイクに跨っていた。
彼はそのバイクでオーストラリア大陸を一周するという壮大な計画をしていた。
けれど彼は、僕と入れ替わるようにして、わずか三日後にはそのフラットを去っていった。
あとの二人は、滋賀県から連れ立ってやってきた二十一歳の二人組だった。
一人はサイキさん。
そしてもう一人は、バス停で僕を待っていてくれたアサハラさんだ。
年齢が近かったこともあり、シドニーでの僕の時間は、自然とアサハラさん達と共有されることが多くなっていった。
初日にアサハラさんからサイキさんを紹介されたとき、彼は指をさして「俺の連れ(ツレ)」と短く言った。
その響きを耳にした瞬間、僕は二人が友人ではなく、何か特別な関係にあるのではないかと一瞬戸惑ってしまった。
もちろん、それは僕の誤解だった。
しばらく経ってから、関西の人々がごく親しい友人のことを「ツレ」と呼ぶのだという習慣を初めて知った。
アサハラさんはボンダイ・ジャンクション駅の近くにある英会話教室に通っていると言った。
それは普通の語学学校というより、英語の講師を育てるための実習校だった。
僕たち生徒は実習生プログラムの一環として、週に20ドルという破格の授業料で通えた。
僕もアサハラさんと一緒にその教室に行った。
教室にはホワイトボードがあり、その周りにパイプ椅子がサークル状に並べられていた。
生徒は多くても15人くらいで、ほとんどが日本人だ。
他に韓国人の女性とスペイン人の女性が一人ずついた。
僕はアサハラさんの隣に座った。
サークル状に配置された椅子の僕の正面にはポニーテールの可愛らしい女の子が座っていた。
タンクトップにショートパンツ。
ビーチサンダルを履いて、健康的でキレイな脚を露わにしていた。
ちょっと肌の露出が多いと思った。
そして瞬間的に僕は彼女に恋してしまった。まさに一目惚れというヤツだ。
英会話の授業よりも目の前に座っている彼女の事が気になってしょうがなかった。
授業が終わって、教室が入っているビルの外に出ると、小さな広場になっていた。
後ろを振り返ると、彼女がちょうどこちらに歩いてきた。
僕はとにかく何でもいいから話しかけたくて、彼女の前に立ち「あの、ポストオフィスはどこだか知ってます?」と尋ねた。
彼女はギロリと僕の顔を睨みつけて左手で指さし「そこ」と言った。
僕たちはポストオフィスの目の前に立っていた。
彼女は少し呆れた顔をしていた。
「私、忙しいの」と言い残して、近くに止まっていたバスに足早に乗りこんでしまった。




