声にならなかったさよなら
声にならなかったさよなら
第一章 違和感
朝の光が、レースのカーテン越しにリビングを照らしていた。
「久くん、コーヒー入れるけど飲む?」
キッチンから美代の声が聞こえる。ダイニングテーブルで新聞を広げていた久夫は、顔を上げた。
「ああ、もらおうかな」
「砂糖は?」
「今日は入れないでいい」
「はーい」
美代の軽快な返事。いつもの朝の風景だった。
久夫は新聞に目を戻しながら、妻の様子を横目で見ていた。美代は三十歳。結婚して三年になる。柔らかな物腰と、誰にでも優しい性格の持ち主だった。
「はい、どうぞ」
美代がコーヒーカップを久夫の前に置いた。
「ありがとう」
「今日も遅くなる?」
「いや、今日は定時で上がれると思う」
「じゃあ、久しぶりに一緒に夕飯作ろうか」
「いいね」
美代は嬉しそうに微笑んで、自分のカップを持ってテーブルに座った。
「今日は何作る?」
「久くん、何か食べたいものある?」
「ミィに任せるよ」
「それじゃ困るのよ」
美代は少し拗ねたような表情を作った。久夫は笑った。
「じゃあ・・・肉じゃがとか」
「肉じゃが? 珍しいリクエストね」
「この前、会社の後輩が実家の母親の肉じゃがが食べたいって言ってて」
「わかった。帰りに買い物してくるね」
美代は時計を見た。
「そろそろ私も行かないと」
美代は市内の総合病院で医療事務として働いていた。患者の受付や会計、カルテの管理などが主な仕事だった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
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美代が勤める総合病院は、駅から徒歩十分ほどの場所にあった。
「おはようございます」
医療事務室に入ると、先輩の田中さんが振り返った。
「おはよう、美代ちゃん。今日も元気そうね」
「はい」
美代はロッカーに荷物を入れ、制服に着替えた。白いブラウスに紺のベスト。胸には「坂田」と書かれた名札をつける。
九時になると、待合室には既に何人もの患者が座っていた。
「おはようございます。診察券をお願いします」
美代は笑顔で患者を迎えた。
午前中は次々と患者が訪れ、美代は休む暇もなく対応した。お年寄りの患者には特に丁寧に、ゆっくりと話しかける。小さな子どもには優しく声をかけ、不安を和らげる。
「坂田さんって、本当に患者さんに優しいわよね」
昼休憩のとき、同僚の佐藤さんが言った。
「そんなことないですよ」
「いや、本当に。この前なんて、認知症気味のおばあさんに三回も同じこと説明してたでしょう」
「でも、わからないと不安ですよね」
美代は当たり前のことのように言った。
五時になり、業務が終わった。美代は駅前のスーパーに寄り、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉を買った。
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家に着いたのは六時過ぎだった。久夫はまだ帰っていない。美代は買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、リビングのソファに座った。
テレビをつけようと手を伸ばしかけて、やめた。久夫が帰ってくるまで、少し静かにしていたい気分だった。
久夫が帰ってきたのは、七時少し前だった。
「ただいま」
「おかえり。早かったね」
「約束通りでしょ」
二人はキッチンに立った。久夫がじゃがいもの皮を剥き、美代がにんじんを切る。
「そういえば、今日患者さんで面白い人がいてね」
美代は手を動かしながら話し始めた。
「八十歳くらいのおじいさんなんだけど、診察券を五枚も持ってきて。家族全員分を間違えて持ってきちゃったみたい」
久夫は笑った。
「それで?」
「名前を一緒に確認して見つけたんだけど、帰り際に『あんた、優しいのう』って」
「ミィは優しいもんな」
「そんなことはないんだけどね」
肉じゃがが煮えるまでの間、二人は他愛もない会話をした。
「いただきます」
食事をしながら、久夫が仕事の話をした。美代は相槌を打ちながら、時々質問をした。
食事が終わり、二人で片付けをした。美代が洗い、久夫が拭く。
「じゃあ、お風呂入ってくるね」
久夫が先に浴室に向かった。美代はリビングに戻り、ソファに座った。
少し疲れていた。テレビをつけると、ニュース番組が流れていた。
アナウンサーが淡々と今日のニュースを読み上げる。政治のニュース、経済のニュース。
美代はぼんやりと画面を見ていた。
そのとき、画面が切り替わった。
「今日午後、○○県△△市で住宅火災があり、焼け跡から身元不明の二名の遺体が発見されました」
画面には、黒く焼け焦げた家屋の映像が映し出された。消防車、そして呆然と立ち尽くす近隣住民と思われる人々の姿。
美代は画面を見つめた。住人と思われる泣き崩れる女性。消防隊員に支えられている。美代の呼吸が、少し浅くなった。胸の奥に、何かが広がっていく。悲しみ。深い、深い悲しみ。どうして・・・。会ったこともない人なのに・・・。
そのとき、浴室のドアが開く音がした。
「ふう、さっぱりした」
バスローブを着た久夫が、タオルで髪を拭きながらリビングに入ってきた。
久夫は美代を見て、動きを止めた。
「ミィ?」
美代はテレビを見つめたまま、動かなかった。久夫は美代の横顔を見た。目が潤んでいる。
「どうした?」
美代ははっとして、久夫を見た。
「あ・・・ううん、何でも」
慌てて目を拭う。でも、涙は止まらなかった。
「何かあった?」
久夫は美代の隣に座った。
「テレビで・・・火事のニュース・・・」
「火事?」
久夫は画面を見た。既に次のニュースに移っていた。
「二人亡くなったって・・・」
美代の声が震えた。
「可哀想で・・・」
久夫は戸惑った。確かに痛ましいニュースだが、妻がここまで・・・。
「ミィ・・・」
「ごめん」
美代は涙を拭いて、笑顔を作った。
「変だよね。知らない人なのに」
「いや、優しいんだよ、ミィは」
「そうかな」
美代は首を横に振った。
「最近、こういうの・・・なんか・・・」
「こういうの?」
「ううん」
美代は言葉を飲み込んだ。
「何でもない。ちょっと疲れてるのかも」
「そうか」
久夫は美代の肩に手を置いた。
「無理しないでな」
「うん」
美代は立ち上がった。
「お風呂、入ってくるね」
浴室に向かう美代の背中を、久夫は見送った。何か、引っかかるものがあった。最近、こういうの・・・。美代が言いかけた言葉。それは何を意味しているのだろう。
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それから一週間、美代は普段と変わらない様子だった。
朝は笑顔で久夫を送り出し、仕事から帰ると夕飯を作る。二人で食卓を囲み、他愛もない会話をする。でも、久夫は気づいていた。美代がニュースを避けるようになったことを。
以前は一緒にニュース番組を見ていたのに、最近は「疲れたから先に寝るね」と言って寝室に行ってしまう。久夫も、なんとなくテレビをつけづらくなっていた。
そして、ある夜のことだった。久夫が残業で遅くなり、帰宅したのは十時過ぎだった。
「ただいま」
返事がない。
リビングの電気がついている。久夫は荷物を置いて、リビングに向かった。美代がソファに座っていた。テレビの画面を見つめたまま、動かない。
「ミィ?」
久夫が声をかけても、反応がなかった。画面を見ると、またあの火災のニュースだった。特集番組として取り上げられているらしい。遺族のインタビュー、焼け跡の映像。
美代の頬を、涙が流れていた。
「ミィ」
久夫は美代の肩に触れた。美代の体がびくりと震えた。
「あ・・・久くん・・・」
美代は慌てて涙を拭った。
「おかえり・・・ごめん、気づかなくて・・・」
「大丈夫か」
「うん、大丈夫・・・」
でも、美代の声は震えていた。呼吸も浅く、速い。久夫はテレビを消した。
「ミィ、水持ってくる」
キッチンで水を注ぎながら、久夫の手が震えていることに気づいた。 これは、普通じゃない。
リビングに戻ると、美代は少し落ち着いたようだった。
「ごめんね。また・・・」
「謝らなくていい」
久夫は美代の隣に座った。
「でも・・・」
「ミィ、一人で抱え込まないで。この間のこと、怖かったんだ」
久夫の声が震えた。
「ミィがどうかしてしまうんじゃないかって」
美代の目に涙が浮かんだ。
「ごめん・・・」
「謝らないで」
久夫は美代の手を握った。
「二人で何とかしよう」
美代はしばらく黙っていた。やがて小さく頷いた。
「うん」
返事を聞いて、久夫の肩から力が抜けた。でも、心のどこかに残る不安を、完全に消すことはできなかった。
この先、何が待っているのか。答えの出ない問いが、久夫の胸に重くのしかかっていた。
翌朝、目が覚めると、美代はもう起きていた。久夫が寝室を出ると、キッチンからいつもの音が聞こえてきた。
「おはよう」
リビングに入ると、美代が振り返った。
「おはよう。よく眠れた?」
その声は、いつもと変わらなかった。表情も、普段通りの穏やかさだった。
でも、目の下には薄い隈があった。
「うん・・・ミィは?」
「私もぐっすり」
美代は笑顔を見せた。
「さ、朝ごはん食べよう」
久夫はテーブルに座った。いつもの朝食。トースト、目玉焼き、サラダ、コーヒー。二人は並んで食べた。でも、会話は少なかった。
「今日も遅くなる?」
「たぶん、普通に帰れると思う」
「そう。じゃあ、夕飯は七時くらいでいい?」
「ああ、そうしよっか」
それだけだった。昨夜のことには、二人とも触れなかった。美代は、触れてほしくないように見えた。久夫も、どう触れていいかわからなかった。
食事が終わり、美代は食器を片付け始めた。
「久くんも準備しないと、遅刻しちゃうでしょう」
「でも・・・」
「大丈夫。行って」
美代の声は優しかったが、どこか有無を言わせない強さがあった。久夫は着替えに向かった。準備を終えて玄関に向かうと、美代が見送りに来た。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
久夫は靴を履きながら、美代を見上げた。
「あの、昨日のことだけど・・・」
「大丈夫」
美代は久夫の言葉を遮った。
「もう大丈夫だから。心配しないで」
その笑顔は、完璧だった。でも、どこか作り物のように見えた。
「・・・わかった」
久夫は家を出た。駅に向かって歩きながら、久夫は考え続けた。 本当に大丈夫なのだろうか。昨夜の美代の涙。あの呆然とした様子。 そして、一週間前に言いかけた言葉。最近、こういうの・・・。
何かが変わっている。その予感だけが、久夫の胸に重くのしかかっていた。
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それから二週間が経った。美代は相変わらず、ニュースを避けるようになっていた。久夫も気を遣って、美代がいるときはテレビをつけなかった。二人の間に、静かな緊張が漂っていた。触れてはいけない何かが、そこにあった。
ある日曜日の午後、美代はソファで本を読んでいた。久夫は書斎で仕事の資料を整理していた。しばらくして、リビングから物音がした。
久夫は書斎を出た。
「ミィ?」
リビングに入ると、美代がソファに座ったまま、本を膝の上に置いていた。顔を覆って、泣いていた。
「ミィ、どうした」
久夫は駆け寄った。
「ごめん・・・」
美代は顔を上げた。目が真っ赤だった。
「本を読んでて・・・登場人物が・・・亡くなって・・・」
「本?」
久夫は美代の膝の上の本を見た。小説だった。
「フィクションだろう?」
「わかってる・・・わかってるんだけど・・・」
美代の声が震えた。
「止まらないの・・・悲しくて・・・苦しくて・・・」
久夫は言葉を失った。小説の中の、架空の人物の死に、妻がここまで・・・。
「これっておかしいよね」
美代は自嘲するように笑った。
「本当におかしくなってる、私・・・」
「ミィ、病院に行こう」
久夫は静かに言った。美代は驚いたように久夫を見た。
「病院・・・?」
「専門家に診てもらおう。一人で抱え込まないで」
美代は久夫を見た。
「・・・そうね、わかった・・・、病院に行く。このままじゃ・・・」
美代は言葉を詰まらせた。
「このままじゃ、ダメになっちゃう」
久夫は美代を抱きしめた。
「大丈夫。一緒に行こう」
美代は久夫の胸で、小さく頷いた。
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久夫は美代と一緒にクリニックを探した。インターネットで検索し、口コミを読み、いくつか候補を絞った。
「ここがよさそうかな」
久夫が画面を指差した。
「榊原メンタルクリニック。死別ケアを専門にしてるって」
「死別・・・ケア?」
「大切な人を失った悲しみに向き合うための、専門的なケアらしい」
美代は画面を見つめた。
「ここに・・・行ってみる」
「予約、取ろうか」
「うん」
久夫はスマホでクリニックのサイトを開いた。オンライン予約のページに進み、初診を選択する。いくつか候補の日時が表示された。
「今週の土曜日、午後三時が空いてる」
久夫が画面を美代に見せると、美代は小さく頷いた。
「それで、お願い」
久夫は予約を確定させた。
美代は小さく息を吐いた。
「でも・・・何だか怖い」
「俺も一緒だから」
「うん、わかった。ありがとう、久くん」
美代は久夫の手を握った。冷たい手だった。
第二章 夫婦のズレ
土曜日が来た。
二人は少し早めに家を出て、クリニックへ向かった。
駅から徒歩十分ほどの住宅街に、古い洋館風の建物があった。「榊原メンタルクリニック」という控えめな看板が立っている。
「ここだね」
久夫が言うと、美代は小さく頷いた。彼女の手は冷たく、緊張で震えていた。
「大丈夫。俺も一緒だから」
久夫は妻の手を握り直して、玄関のドアを開けた。待合室は思ったより明るく、温かみのある空間だった。淡いベージュの壁に、観葉植物が並んでいる。
受付で名前を告げると、若い女性が穏やかな笑顔で応対してくれた。
「初診の問診票にご記入をお願いします」
二人は並んで椅子に座り、美代が問診票に向かった。久夫はそれを見守りながら、自分の心臓の音が妙に大きく聞こえることに気づいた。なぜこんなに緊張しているんだろう。
「坂田美代さん」
看護師の声に、二人は顔を上げた。
「診察室へどうぞ。ご主人も、ご一緒にお入りください」
廊下を進み、奥の診察室に案内される。ドアを開けると、落ち着いた雰囲気の部屋が広がっていた。窓際に大きな観葉植物、本棚には医学書だけでなく文学書も並んでいる。
「どうぞ、お座りください」
机の向こうから声がした。五十代半ばと思われる男性が、穏やかな表情で二人を見ていた。白髪混じりの短髪、丸い眼鏡の奥の目は優しいが、どこか鋭い洞察力を感じさせる。
「榊原です。初めまして」
「坂田です。妻の美代と、私は久夫と申します」
挨拶を交わし、二人は並んで椅子に座った。
榊原医師は問診票に目を通しながら、ゆっくりと口を開いた。
「坂田さん、今日はどのようなことでいらっしゃいましたか」
美代は少し戸惑った様子で、久夫を見た。久夫が小さく頷くと、美代は言葉を探すように話し始めた。
「人が亡くなったニュースを見ると、すごく悲しくなって・・・涙が止まらなくなるんです。知らない人でも」
「それはいつ頃からですか」
榊原医師の声は穏やかだった。
「昔から、なんとなくそういう傾向はあったんですけど・・・最近、特にひどくなって・・・」
美代の声が小さくなる。
「具体的には、どのくらいの頻度で」
「この二週間で、三回。一回目と二回目は火事のニュース。三回目は・・・」
美代は言葉を詰まらせた。
「小説を読んでいて、登場人物が亡くなるシーンで・・・涙が止まらなくなりました」
榊原医師は静かにメモを取った。
「日常生活に支障は出ていますか」
「ニュースを見るのが怖くて・・・避けるようになりました。小説も、読めなくなりました」
「お仕事は?」
「病院で医療事務をしています。今のところ、仕事中は大丈夫ですけど・・・」
美代は不安そうに続けた。
「でも、このままエスカレートしたら・・・患者さんの死亡届とか、扱えなくなるんじゃないかって」
榊原医師は何も言わず、美代の顔をじっと見つめた。その視線は優しいが、どこか深いところまで見透かすような強さがあった。
「怖いですか」
「はい」
美代は素直に答えた。
「このままどうにかなってしまうんじゃないかって」
「ご主人は、奥様の症状についてどう感じていますか」
突然、榊原医師が久夫に視線を向けた。久夫は不意を突かれたように身を固くした。
「えっと・・・心配です。美代が苦しんでいるのが」
「それだけですか」
榊原医師の声は穏やかだったが、その問いは久夫の胸に突き刺さった。
「正直に仰ってください。奥様の症状を目の当たりにして、あなた自身はどう感じましたか」
久夫は言葉に詰まった。美代が横で息を呑む気配がした。
「私も・・・怖かったです」
久夫は絞り出すように言った。
「美代が、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかって。そして・・・」
言いかけて、久夫は口を閉ざした。
「そして?」
「自分が、支えきれないんじゃないかって」
その瞬間、美代が小さく息を吸う音が聞こえた。久夫は妻の方を見ることができなかった。
「正直に仰ってくださり、ありがとうございます」
榊原医師は静かに言った。
「久夫さん、あなたも一緒に支える覚悟が必要です。でもそれは、一人で抱え込むことではありません」
久夫は顔を上げた。榊原医師の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「支えるということは、弱さを認め合うことでもあります。あなたが完璧でいる必要はない。むしろ、限界を知ることが大切なんです」
その言葉に、久夫の胸に何かが響いた。
二年前の記憶が蘇る。母が入院したとき、久夫は仕事を続けながら毎日病院に通った。誰にも弱音を吐かず、一人で全てを抱え込んだ。結果、母が退院する頃には久夫自身が体調を崩し、一ヶ月も寝込んだ。あのとき医師に言われた言葉を、今でも覚えている。
「あなたが倒れたら、誰がお母さんを支えるんですか」
「わかりました」
久夫は小さく答えた。
榊原医師は満足そうに頷き、再び美代に視線を戻した。
「坂田さん、あなたの症状には必ず原因があります。多くの場合、それは過去の記憶に沈んでいます」
「過去・・・ですか」
「ええ。特に幼少期の体験が、大人になってから思わぬ形で表面化することがあります」
美代は何か思い当たるような表情を浮かべた。だがすぐに首を横に振った。
「でも、私・・・特に何も」
「今は思い出せなくても構いません」
榊原医師は穏やかに言った。
「記憶というのは、心が守るために隠していることもあります。それを無理に掘り起こす必要はありませんが、もしよければ、退行催眠という方法があります」
「退行・・・催眠・・・ですか」
美代の声が不安そうに震えた。
「怖いものではありません。リラックスした状態で、過去の記憶に意識を向けるだけです。あなたの心が許す範囲でしか、記憶は戻ってきません」
「それで、原因がわかるんですか」
「わかる可能性があります。ただし無理強いはしません。あくまであなたが望むなら、ということで」
美代は黙り込んだ。久夫は妻の横顔を見つめた。彼女の目には迷いと恐れが浮かんでいる。
「やってみる?」
久夫が小さく声をかけると、美代は久夫を見た。その目に涙が浮かんでいた。
「なんか怖い」
「俺もいるから」
「でも・・・」
「一緒に向き合おう」
久夫は美代の手を握った。冷たい手が、少しだけ温かくなった気がした。
美代は深く息を吸い、榊原医師を見た。
「やってみます」
「わかりました」
榊原医師は静かに微笑んだ。
「では次回、準備をしましょう。今日はこれで終わりにしますが、一つだけ」
榊原医師は二人を見た。
「お二人とも、よくここまで来られました。それだけで大きな一歩です」
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診察室を出て、二人は無言で並んで歩いた。クリニックを出て、しばらく歩いたところで、美代が口を開いた。
「ねえ、久くん」
「ん?」
「さっき、支えきれないかもしれないって言ってたでしょう」
久夫は足を止めた。美代も立ち止まり、久夫の顔を見上げた。
「私も同じこと思ってた」
「ミィ・・・」
「久くんを巻き込みたくなくて。一人で何とかしなきゃって思ってた」
美代の目から涙が一筋、頬を伝った。
「でも、できなかった」
「当たり前だろう」
久夫は美代を抱き寄せた。
「一人で何とかできることじゃない。だから、一緒に向き合うんだ」
美代は久夫の胸に顔を埋めて、小さく頷いた。
住宅街の静かな午後、二人は並んでゆっくりと歩いていた。これから何が待っているのか、まだわからない。でも今は、二人で歩き始めたことが、唯一確かなことだった。
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それからの数日間、美代の様子は少し落ち着いているように見えた。
ニュースを見ることは相変わらず避けていたが、小説を読む気にはなれないと言いながらも、家事はきちんとこなしていた。
久夫も、妻の様子を注意深く見守っていた。
でも、完全に元通りというわけではなかった。美代は時折、何かを思い出すように遠い目をすることがあった。そんなとき、久夫が声をかけると、彼女ははっと我に返って笑顔を作った。
「大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけ」
その笑顔が、以前より少し硬いことに、久夫は気づいていた。
二人の間には、静かな緊張が漂っていた。会話は以前より少なくなった。夕食時も、必要なことだけを話す。テレビはつけない。本も読まない。家の中に、触れてはいけない空気が流れ始めていた。
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退行催眠の予約日が近づいてきた。
その週の水曜日、久夫が仕事から帰ると、美代がキッチンで夕飯の支度をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
久夫は荷物を置いて、リビングに入った。
「今日、何作ってるの?」
「カレー」
美代の声は平坦だった。
「手伝おうか」
「いいよ、もうすぐできるから」
久夫はソファに座った。美代の背中を見つめる。いつもより、背中が小さく見えた。夕食ができ、二人は向かい合って座った。
「いただきます」
カレーを口に運ぶ。美代の作るカレーは、いつも美味しかった。
でも今日は、味をあまり感じなかった。
「ミィ」
久夫が口を開いた。
「金曜日のこと、不安?」
美代は手を止めて、久夫を見た。
「うん・・・少し」
「何が一番怖い?」
美代は少し考えてから、答えた。
「思い出したくないことを、思い出してしまうんじゃないかって」
「思い出したくないことって?」
「わからない」
美代は首を横に振った。
「でも、何か・・・胸の奥に、重たいものがある気がするの」
久夫は黙って聞いていた。
「それが何なのか、自分でもよくわからない。でも、それに触れたら・・・」
美代は言葉を詰まらせた。
「壊れちゃうんじゃないかって」
「壊れたりはないよ、俺がいるから」
久夫は美代の手を握った。
「ありがとう」
美代は小さく笑った。
「でもね、久くん」
「ん?」
「久くんも、無理しないでね」
美代は久夫を見つめた。
「先生が言ってたでしょう。一人で抱え込まないって」
「わかってる」
「本当に?」
美代の声には、心配が滲んでいた。
「久くんって、昔から一人で抱え込むタイプだから」
久夫は驚いて、美代を見た。
「お義母さんが入院したとき、全部一人でやろうとして、倒れたでしょう」
「・・・覚えてたのか」
「当たり前でしょう」
美代は少し怒ったような顔をした。
「あのとき、私・・・本当に怖かったんだから」
「ごめん」
「謝らなくてもいいけど・・・」
美代は久夫の手を握り返した。
「だから、今回は二人で。お互いに、支え合おう」
「ああ」
久夫は頷いた。
「約束する」
二人は手を繋いだまま、しばらく黙っていた。
カレーは、少し冷めてしまっていた。
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金曜日が来た。
美代は仕事を休んだ。久夫も午後から休暇を取った。二人は昼過ぎに家を出て、クリニックへ向かった。電車の中で、美代は久夫の腕にしがみついていた。
「大丈夫?」
「うん・・・ちょっと緊張してるだけ」
美代は無理に笑顔を作った。
クリニックに着くと、受付の女性が穏やかに迎えてくれた。
「坂田さん、どうぞこちらへ」
診察室に入ると、今日の部屋は少し様子が違っていた。窓にはカーテンが引かれ、部屋全体が薄暗い。机の横には、背もたれの深いリクライニングチェアが用意されていた。
「いらっしゃい。よく来ましたね。心の準備はできていますか」
榊原医師が穏やかに微笑んだ。美代は小さく頷いたが、その顔は緊張で強張っている。
「久夫さんは、あちらの椅子にどうぞ。奥様から見えない位置にいてください」
久夫は指示された椅子に座った。そこから美代の横顔が見える。彼女は深呼吸を繰り返していた。
「では始めます」
榊原医師は美代の向かいに座り、静かに語りかけ始めた。
「まず、楽な姿勢になってください。目を閉じて、呼吸に意識を向けます」
美代がリクライニングチェアに深く身を沈める。目を閉じた彼女の表情から、少しずつ緊張が抜けていくのがわかった。
「息を吸って・・・吐いて・・・そう、とてもいいですね」
榊原医師の声は低く、リズミカルだった。久夫も思わず、その声に引き込まれそうになる。
「あなたは今、とても安全な場所にいます。誰もあなたを傷つけることはできません」
美代の呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。
「これから、過去へと意識を向けます。時間を遡っていきます。無理はしません。あなたの心が許す範囲で」
榊原医師は静かに続けた。
「十年前・・・二十年前・・・そして、もっと遠い昔・・・」
美代の表情が、わずかに変化した。眉間に小さな皺が寄る。
「何か見えますか」
しばらくの沈黙。
「・・・はい」
美代の声が、幼い響きを帯びた。久夫は思わず身を乗り出しそうになった。
「どこにいますか」
「おばあちゃんの家・・・」
美代の声は、確かに子どものものだった。
「何をしていますか」
「遊んでる・・・おばあちゃんと、折り紙・・・」
美代の顔に、柔らかい笑みが浮かんだ。
「楽しいですか」
「うん・・・おばあちゃん、優しい・・・いつも一緒に遊んでくれる・・・」
久夫は胸が詰まる思いで、妻の横顔を見つめた。
「そのおばあちゃんと、何か特別な思い出はありますか」
美代の表情が曇った。
「・・・あの日・・・」
「あの日?」
「おばあちゃんが・・・」
美代の呼吸が少し乱れた。榊原医師は素早く判断した。
「大丈夫です。今日はここまでにしましょう。ゆっくりと、意識を戻していきます」
榊原医師が美代を催眠から覚まし始めた。美代が目を開けたとき、その目は少し潤んでいた。
「おかえりなさい」
榊原医師が優しく言った。美代は少しぼんやりとしていた。
「どうでしたか」
「おばあちゃん・・・久しぶりに、思い出しました・・・」
美代の声は穏やかだった。
「無理はしませんでしたか」
「大丈夫です。でも・・・」
美代は榊原医師を見た。
「あの日のこと、もっと思い出したい気がします」
「焦る必要はありません」
榊原医師は言った。
「心が準備できたとき、記憶は自然に戻ってきます」
診察が終わり、二人はクリニックを出た。外はまだ明るく、春の日差しが心地よかった。
「疲れた?」
久夫が尋ねると、美代は首を横に振った。
「不思議と、すっきりしてる」
「よかった」
二人は並んで歩いた。
「ねえ、久くん」
「ん?」
「おばあちゃんのこと、久しぶりに思い出した」
美代は遠い目をした。
「優しい人だったなぁ・・・」
久夫は黙って聞いていた。
「でも、あの日のこと・・・まだ、はっきりしないの」
「無理に思い出さなくてもいいって、先生も言ってたよ」
「うん」
美代は小さく笑った。
「でもね、きっと・・・もうすぐわかる気がする」
二人は駅に向かって歩き続けた。
長い旅の、始まりだった。
第三章 祖母との日々
それから二週間、美代は週に一度のペースで榊原医師の診察を受けた。
二回目の退行催眠では、祖母との温かな日々がさらに鮮明に蘇ってきた。一緒に作った料理。読んでもらった絵本。庭で育てた朝顔。 美代は少しずつ、幼い頃の記憶を取り戻していった。
「今日はどうでしたか」
三回目の診察の後、榊原医師が尋ねた。
「おばあちゃんと庭で朝顔を育てていた記憶が・・・」
美代は目を閉じた。
「青い朝顔が咲いて、おばあちゃんがすごく喜んでくれて・・・」
「それは良い記憶ですね」
「はい」
美代は微笑んだ。
「でも・・・やっぱり、あの日のことは・・・まだ霧の中にあるみたいで」
「焦る必要はありません」
榊原医師は毎回そう言った。
「心が準備できたとき、記憶は自然に戻ってきます」
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その頃、美代の症状は少しずつ改善していた。
ニュースで訃報を見ても、以前のような過剰な反応は起きなくなった。悲しみは感じるが、それは自然な範囲の感情だった。
「今日、患者さんの訃報の連絡があったんだけど」
ある日の夕食時、美代が言った。
「大丈夫だった。悲しかったけど、仕事はちゃんとできた」
「それはよかったね」
久夫は安堵した。
「でも、無理はしないでね」
「うん」
美代は頷いた。
「でもね、少しずつ変わってきてる気がする。以前みたいに、飲み込まれそうになることはなくなった」
久夫も変わっていた。以前のように一人で抱え込むことをやめ、美代との対話を大切にするようになった。仕事で疲れていても、美代の話をちゃんと聞く。自分の不安も、素直に口にする。
「今日、ちょっと不安になったんだ」
ある夜、久夫が言った。
「ミィの催眠、本当にうまくいってるのかなって」
「どうして?」
「いや、順調すぎるような気がして。この先、何か・・・辛いことが出てくるんじゃないかって」
美代は久夫の手を握った。
「確かに、怖いよ。でも、久くんがいるから大丈夫って思ってる」
「俺もちょっと怖いんだよね」
久夫は正直に言った。
「ミィが辛い記憶に向き合うとき、俺に何ができるのかって」
「そばにいてくれるだけで十分だよ」
美代は微笑んだ。
「一人じゃないって、それだけで強くなれる」
二人の関係は、以前より深いところで繋がっているように感じられた。
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四回目の診察の日が来た。
美代は朝から少し緊張した様子だった。
「今日は、何か違う?」
久夫が尋ねると、美代は小さく頷いた。
「わからない。でも・・・何か、準備ができたような気がする」
クリニックに着くと、榊原医師は二人を穏やかに迎えた。
「今日もいつも通り、リラックスして臨んでください。無理はしません」
美代はリクライニングチェアに座った。久夫は定位置の椅子に座り、妻を見守る。
「その前に」
榊原医師が久夫を見た。
「久夫さん、この数週間、奥様を支えてこられて、どうでしたか」
「えっと・・・」
久夫は少し戸惑った。
「正直に」
「正直・・・大変でした」
久夫は言った。
「ミィが辛そうにしているとき、何をしてあげればいいのかわからなくて。無力感を感じました」
「それは自然な感情です」
榊原医師は頷いた。
「でも、あなたは逃げなかった。そばにい続けた」
「でも・・・」
「それが、一番大切なことなんです」
榊原医師は真剣な目で久夫を見た。
「人は、誰かの苦しみを完全に取り除くことはできません。でも、そばにいることはできる。それだけで、相手は孤独ではなくなる」
久夫は胸が熱くなるのを感じた。
「あなたは、もう十分に奥様を支えています」
「そうですか、ありがとうございます」
久夫は小さく答えた。
榊原医師は美代を見た。
「坂田さん、準備はいいですか」
「はい」
美代は目を閉じた。
________________________________________
催眠の導入はスムーズに進んだ。美代の呼吸が深く、規則的になる。
「今日は、もう少し深いところまで行ってみましょう」
榊原医師の声が、静かに響く。
「あなたが向き合える範囲で。おばあさまが亡くなった日のことを、思い出してください」
美代の表情が、わずかに緊張した。
「大丈夫です。あなたは安全な場所にいます」
しばらくの沈黙。
「・・・見えます」
「何が見えますか」
「あの日の朝・・・ママが慌てている・・・」
美代の声が震えた。
「『おばあちゃんが』って・・・」
「それで?」
「パパも来て・・・二人で話してる・・・『美代には、まだ言わない方がいい』って・・・」
美代の呼吸が少し速くなる。
「あなたは、どうしましたか」
「怖かった・・・何が起きたのかわからなくて・・・」
美代の眉間に皺が寄る。
「でも、わかった・・・おばあちゃんが、いなくなったって・・・」
久夫は固唾を呑んで見守っていた。
「その前の日のこと、覚えていますか」
榊原医師が静かに尋ねた。
美代の表情が、さらに曇った。
「・・・昨日」
「何があったんですか」
「おばあちゃんが・・・『美代ちゃん、一緒に遊ぼう』って・・・」
美代の声が幼くなる。
「でも・・・私・・・」
「あなたは、どうしましたか」
「『今日は嫌』って・・・言っちゃった・・・」
美代の目から、涙が一筋流れた。
「『一人で遊びたい』って・・・冷たく言っちゃった・・・」
久夫の胸が締め付けられた。
「それで?」
「おばあちゃん、悲しそうな顔した・・・でも、『そう』って言って・・・部屋に戻っていった・・・」
美代の呼吸がさらに速くなる。
「それが・・・最後だった・・・」
榊原医師は慎重に言葉を選んだ。
「あなたは、どう思いましたか」
「私のせい・・・」
美代の全身が震え始めた。
「私が冷たくしたから・・・おばあちゃん、死んじゃった・・・」
久夫は立ち上がりかけたが、榊原医師が手で制止した。
「坂田さん、それはあなたのせいではありません」
榊原医師の声は、優しいが確固としていた。
「子どもは、そういう日もあります。一人で遊びたい日もあります。それは自然なことです」
「でも・・・」
「おばあさまは、わかっていましたよ」
「本当・・・?」
「本当です」
榊原医師は静かに続けた。
「でも今は、ここまでにしましょう。ゆっくりと、意識を戻していきます」
美代が目を開けたとき、その目は涙で濡れていた。
「おかえりなさい」
榊原医師が言うと、美代は小さく頷いた。
久夫は椅子から立ち上がり、美代の側に駆け寄った。
「久くん・・・」
美代は久夫の手を握った。
「思い出した・・・あの日のこと・・・」
「よく頑張ったね」
久夫は美代の手を握り返した。
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榊原医師は二人にお茶を出してくれた。美代は少し落ち着きを取り戻していた。
「坂田さん、今日は大きな一歩を踏み出しましたね」
「はい・・・」
美代は茶碗を両手で包んだ。
「長い間、忘れていたこと・・・いえ、忘れようとしていたことを、思い出しました。今、どんな気持ちですか」
「ちょっと・・・辛いです」
美代は正直に答えた。
「でも・・・少しだけ、軽くなった気もします」
「それは良い兆候です」
榊原医師は頷いた。
「記憶は、封印されている間ずっと、あなたの心を圧迫していました。それを表に出すことで、向き合うことができる」
「でも・・・」
美代は俯いた。
「おばあちゃんに、ひどいことをしてしまった・・・」
「そうでしょうか?」
榊原医師は穏やかに問いかけた。
「あなたは子どもでした。子どもが、その日遊びたくないと言うこと。それは、本当にひどいことでしょうか」
美代は黙っていた。
「私にも、かつて子どもがいました」
榊原医師は静かに言った。
久夫と美代は驚いて、医師を見た。
「五歳の息子でした。ある日、私が仕事で疲れて帰ってきたとき、息子が『パパ、遊ぼう』と言いました」
榊原医師の声に、わずかな震えがあった。
「でも私は『今日は疲れたから、また今度』と言いました。息子は悲しそうな顔をして、部屋に戻りました」
美代は息を呑んだ。
「その一週間後、息子は交通事故で亡くなりました」
沈黙が部屋を満たした。
「私は長い間、自分を責めました。あのとき、一緒に遊んであげればよかった。最後の機会を、私は逃してしまった、と」
榊原医師は窓の外を見た。
「でも、時間をかけて気づいたんです。あれは、私のせいではないと」
榊原医師は美代を見た。
「子どもが遊びたくない日もある。親が疲れて遊べない日もある。それは、人として自然なことです。それが、死の原因になることはありません」
美代の目から、大粒の涙が溢れた。
「坂田さん、あなたのおばあさまも、同じことを思っていたはずです」
「でも・・・会って、謝りたかった・・・」
「それは、次回の催眠で試みることができます」
榊原医師は優しく言った。
「心の中で、おばあさまに会いに行くことができます。そして、言えなかった言葉を伝えることができます」
「本当に・・・できますか」
「できます」
榊原医師は微笑んだ。
「でも今日は、ここまでにしましょう。十分に頑張りました」
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クリニックを出ると、外は夕暮れ時だった。
二人はしばらく無言で歩いた。
「久くん」
美代が口を開いた。
「榊原先生の話、聞いて・・・」
「うん」
「先生も、辛い経験をされてたんだね」
「ああ」
久夫は頷いた。
「だから、ミィの気持ちがわかるんだろうな」
「うん」
美代は空を見上げた。夕焼けが空を染めている。
「先生の言葉、心に響いた」
「どの言葉?」
「『それは、あなたのせいではない』って」
美代は久夫を見た。
「ずっと、自分のせいだって思ってた。でも・・・違うのかもしれない」
「そうだね」
久夫は美代の肩を抱いた。
「ミィは何も悪くない」
「ありがとう」
美代は久夫の胸に顔を埋めた。
「次の催眠で・・・おばあちゃんに会えるかな」
「会えるよ、きっと」
「帰ろうか」
久夫が言うと、美代は頷いた。二人は駅に向かって並んで歩き始めた。夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。次の催眠が、きっと何かを変える。そんな予感が、二人の胸にあった。
第四章 閉じ込められた記憶
次の診察日まで、一週間の時間があった。美代はその間、落ち着かない様子だった。仕事には行くが、帰ってくると疲れた顔をしている。夕飯を作り、二人で食べるが、会話は少なかった。
「大丈夫?」
ある夜、久夫が尋ねると、美代は曖昧に笑った。
「うん・・・ちょっと、考え事してただけ」
「おばあちゃんのこと?」
「うん」
美代は紅茶のカップを両手で包んだ。
「次の催眠で、会えるかもしれないって思うと・・・嬉しいような、怖いような」
「怖い?」
「だって・・・ちゃんと謝れるかな、言葉が出てくるかなぁって」
美代の目に不安が浮かぶ。
「きっと大丈夫だよ」
久夫は美代の手に自分の手を重ねた。
「ミィは、ちゃんと向き合おうとしてる。それだけで、十分だと思う」
「ありがとう、久くん」
美代は少し安心したように微笑んだ。
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数日後、美代の様子に変化があった。夜、久夫が帰宅すると、美代が古いアルバムを広げていた。
「ミィ?」
「あ、おかえり」
美代は顔を上げた。目が少し赤い。
「どうしたの、それ」
「実家から持ってきてたアルバム。ずっと、見る勇気がなくて・・・」
久夫は美代の隣に座った。アルバムには、幼い美代と、優しそうな笑顔の老女が写っていた。
「おばあちゃん?」
「うん」
美代は写真を指でなぞった。
「本当に、優しい人だった・・・」
写真の中の祖母は、幼い美代を抱きしめている。二人とも、心から幸せそうに笑っていた。
「これ、庭で朝顔を見てるところ」
美代は別の写真を指差した。
「催眠で思い出したのと、同じ場面だ」
青い朝顔が咲いている庭で、祖母と美代が並んで立っている。
「綺麗だね」
「うん・・・おばあちゃん、すごく喜んでた」
美代はページをめくった。
「これは、一緒にクッキーを作ってるところ。これは、絵本を読んでもらってるところ・・・」
一枚一枚の写真に、温かな記憶があった。
「ねえ、久くん」
「ん?」
「おばあちゃんと過ごした時間は、本当に幸せだったの」
美代は久夫を見た。
「でもね、最後の日のことばかり考えて、その前の全部を忘れてたの」
「そうだね」
「おばあちゃんは、きっと・・・最後の日のことより、一緒に過ごした全部の時間を大切に思ってたんじゃないかなぁって」
久夫は美代の肩を抱いた。
「きっとそうだよ」
美代はアルバムを閉じた。
「次の催眠、頑張る」
「うん」
「おばあちゃんに、ちゃんと伝えたい」
美代の目には、涙が浮かんでいたが、その表情は以前より強かった。
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金曜日が来た。
美代は朝から落ち着いていた。緊張はしているが、覚悟を決めたような表情だった。
「行ってくるね」
久夫が仕事に出かけるとき、美代が言った。
「午後、クリニックで会おうね」
「ああ。待ってる」
久夫は家を出た。
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午後二時半、久夫はクリニックに着いた。美代は既に待合室にいた。
「お待たせ」
「うん、私も今来たところ」
美代は立ち上がった。手に、小さな袋を持っている。
「それは?」
「おばあちゃんの写真」
美代は袋を開けて見せた。先日見たアルバムから一枚、祖母と美代が笑顔で写っている写真が入っていた。
「持ってこようと思って」
「いい考えだね」
まもなく、看護師が二人を呼んだ。
診察室に入ると、榊原医師が穏やかに迎えてくれた。
「こんにちは。準備はできていますか」
「はい」
美代は写真を榊原医師に見せた。
「これ、おばあちゃんとの写真です。持っていてもいいですか」
「もちろん」
榊原医師は写真を見て、優しく微笑んだ。
「良い笑顔ですね。お二人とも、とても幸せそうだ」
「はい」
美代は写真を胸に抱いた。
「今日は、おばあちゃんに会いたいんです」
「わかりました」
榊原医師は頷いた。
「では、始めましょう」
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美代はリクライニングチェアに座った。写真は、胸の上に置いた。
久夫は定位置の椅子に座り、妻を見守る。
榊原医師が催眠の導入を始めた。美代の呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。
「あなたは今、とても安全な場所にいます」
榊原医師の声が、静かに響く。
「今から、心の中でおばあさまに会いに行きます。おばあさまは、あなたを待っています」
美代の表情が、穏やかになっていく。
「どこが見えますか」
「・・・庭」
美代の声が、優しい響きを帯びた。
「おばあちゃんの家の庭・・・朝顔が咲いてる・・・」
「朝顔の色は?」
「青・・・きれいな青・・・」
美代の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「おばあさまはいますか」
「・・・いる」
美代の声が震えた。
「おばあちゃんが・・・そこにいる・・・」
久夫は固唾を呑んで見守った。
「おばあさまは、何をしていますか」
「朝顔に水をあげてる・・・笑ってる・・・」
「あなたに気づきましたか」
「・・・気づいた」
美代の目から、涙が一筋流れた。
「『美代ちゃん』って・・・呼んでくれた・・・」
「近づいてください」
しばらくの沈黙。
「おばあちゃん・・・」
美代の声が、子どものように小さくなった。
「ごめんなさい・・・あの日、冷たいこと言って・・・」
涙が、頬を伝い続ける。
「『遊びたくない』って言って・・・それが最後になっちゃって・・・」
美代の全身が震えている。
「おばあさまは、何と言っていますか」
美代は黙っていた。耳を澄ましているように見えた。
「『いいのよ、美代ちゃん』って・・・」
美代の声が、驚きと安堵に満ちていた。
「『あの言葉、全然気にしてないよ』って・・・」
「他には?」
「『子どもはね、そういう日もあるの』って・・・」
美代の顔に、穏やかな笑みが広がった。
「『一人で遊びたい日も、誰かと一緒にいたくない日も、それは悪いことじゃないのよ』って・・・」
久夫の目からも、涙が溢れていた。
「『美代ちゃんが、私のこと嫌いになったわけじゃないって、ちゃんとわかってたよ』って・・・」
「おばあさまに、何か伝えたいことはありますか」
美代は深く息を吸った。
「おばあちゃん・・・ありがとう・・・」
美代の声が、涙で途切れがちになる。
「いつも一緒に遊んでくれて・・・いつも優しくしてくれて・・・」
しばらくの沈黙。
「大好きだったよ・・・今も、ずっと大好き・・・」
美代の表情が、安らかになっていく。
「おばあさまは、何と言っていますか」
「『私も大好きよ、美代ちゃん』って・・・」
美代の声が震えた。
「『あなたが幸せに生きてくれることが、私の一番の願いだよ』って・・・」
「他には?」
「『だから、もう自分を責めないで』って・・・」
美代は静かに泣いていた。
「『生きている人を、大切にして。今、隣にいる人を、精一杯愛して』って・・・」
久夫は自分の拳を強く握り締めた。
「おばあさまに、最後に何か伝えたいことはありますか」
「・・・言えなかった言葉」
美代は静かに言った。
「あの日、言えなかった・・・『ありがとう』・・・」
長い沈黙。
「おばあちゃん・・・ありがとう・・・」
その瞬間、美代の体から力が抜けた。長年抱えていた何かが、溶けて流れ出ていくようだった。
「おばあちゃんは、笑ってる・・・『よかった』って・・・『美代ちゃん、幸せにね』って・・・」
美代の顔に、穏やかな笑みが広がった。
「手を振ってる・・・『また会えるからね』って・・・」
しばらくの静寂の後、榊原医師がゆっくりと美代を催眠から覚まし始めた。
「一つ、二つ、三つ・・・ゆっくりと意識が戻ってきます・・・」
美代が目を開けたとき、その目は涙で濡れていたが、驚くほど澄んでいた。
何かが、確実に変わっていた。
「おかえりなさい」
榊原医師が言うと、美代は小さく笑った。
「ただいま・・・です」
美代は久夫を見た。久夫も立ち上がり、妻の側に駆け寄った。
「久くん・・・会えた・・・おばあちゃんに、会えた・・・」
「よかった」
久夫は美代の手を握った。その手は、以前より温かく感じられた。
「ちゃんと、言えた・・・ありがとうって・・・ごめんなさいって・・・」
美代は久夫の手を強く握り返した。
「これで、いいんだよね・・・」
「ああ、大丈夫だ」
________________________________________
榊原医師は静かに二人を見守っていた。しばらくして、口を開いた。
「坂田さん、今日は本当によく頑張りましたね」
美代は榊原医師を見て、深く頷いた。
「はい・・・長い間、ずっと抱えていたものが・・・消えました」
「消えたというより、解放されたんです」
榊原医師は穏やかに言った。
「あなたは自分を許し、おばあさまからも許しを受け取った。そして、言えなかった言葉を伝えることができた」
「記憶の欠けていた部分・・・」
美代は胸に抱いていた写真を見た。
「それは、おばあちゃんの笑顔でした」
「そうです」
榊原医師は頷いた。
「あなたの心は、その笑顔を守るために、辛い記憶を一緒に封印していたんです」
美代は目を閉じて、深く息を吸った。
「今なら、わかります。おばあちゃんは、ずっと私を見守ってくれていたんですね」
「そうです。そして、これからも」
榊原医師は立ち上がり、窓の外を見た。
「坂田さん、あなたの症状の原因は、おばあさまへの罪悪感でした」
「はい」
「それが、他者の死に対する過剰な悲しみとして表れていた。自分を許せなかったあなたは、すべての死に対して、まるで自分に責任があるかのように感じていたんです」
美代は驚いたように榊原医師を見た。
「そう・・・だったんですか」
「ええ。でも今日、あなたは自分を許した。おばあさまも、あなたを許した」
榊原医師は美代を見た。
「これから、あなたは他者の死を、適切な距離で受け止められるようになるでしょう」
「本当に・・・そうなれますか」
「なれます」
榊原医師は確信を持って言った。
「ただし、時間はかかります。焦らず、ゆっくりと」
________________________________________
診察が終わり、二人はクリニックを出た。
外は春の夕暮れで、空がオレンジ色に染まっていた。
しばらく無言で歩いていた美代が、突然立ち止まった。
「ねえ、久くん」
「ん?」
美代は久夫の方を向いた。その目には、涙はもうなかった。
「私・・・変われるかな」
「変われるよ」
久夫は即座に答えた。
「もう変わり始めてる」
「そうかな」
「そうだよ」
久夫は美代の肩を抱いた。
「ミィは、ちゃんと向き合った。逃げなかった」
「久くんが、一緒にいてくれたから」
美代は久夫の胸に顔を寄せた。
「一人だったら、きっとできなかった」
「俺も、ミィがいてくれてよかった」
「これから、どうなるかわからない。でも・・・」
「でも?」
「二人でなら、大丈夫だって思える」
美代は顔を上げて、久夫を見た。
「うん。二人でなら、大丈夫」
二人は手を握ったまま、しばらく立っていた。 夕日が、二人を温かく照らしていた。長い、長いトンネルを抜けた。光の中に、二人は立っていた。
「帰ろうか」
久夫が言うと、美代は頷いた。二人は駅に向かって歩き始めた。これから歩む道は、まだ見えない。でも、二人で歩いていけば大丈夫だと、確信できた。美代は空を見上げた。オレンジ色の空に、一番星が輝き始めていた。
「ありがとう、おばあちゃん」
心の中で、美代は呟いた。風が吹いて、二人の髪を優しく撫でた。 まるで、誰かが見守っているように。
エピローグ
その夜、家に帰った二人は並んでソファに座った。
美代は、まだ余韻の中にいるようだった。
「不思議な感じ」
美代が呟いた。
「催眠の中のことなのに、本当におばあちゃんに会えた気がする」
「会えたんだと思う」
久夫は静かに言った。
「うん」
美代は深く息を吐いた。
「今まで抱えてたものが、急になくなって・・・空っぽになったみたいで」
「重荷を降ろしたんだよ」
久夫は美代を見た。
「これから、少しずつ慣れていけばいい」
美代は小さく頷いた。
________________________________________
翌週、美代は榊原医師の診察を受けた。
「調子はどうですか」
「良いです。先週、テレビで事故のニュースを見たんですけど・・・悲しかったです。でも、溺れませんでした」
「それは素晴らしい変化ですね」
榊原医師は頷いた。
「次回で、定期的な診察は終わりにしましょうか」
「本当に・・・もう大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。ただし、もし辛いことがあったら、いつでも来てください」
「ありがとうございます」
美代は深く頭を下げた。
________________________________________
二週間後、最後の診察を終えた二人は、美代の実家へ向かった。
「お墓参りに行きたい」
美代が言った。
「おばあちゃんに、報告したい」
墓地は実家から車で十分ほどの、小高い丘の上にあった。
美代は母親と久夫と三人で、祖母の墓の前に立った。
「おばあちゃん、来たよ」
美代は墓石に手を合わせた。
「ずっと来られなくて、ごめんね」
風が吹いて、木々の葉が揺れた。
「でも、やっと・・・来られた」
美代は目を閉じた。
「あの日のこと、ちゃんと思い出せたから」
しばらくの沈黙。
「ありがとう、おばあちゃん。いつも一緒に遊んでくれて。いつも優しくしてくれて」
美代は墓石に額をつけた。
「これからは、ちゃんと生きる。今、隣にいる人を大切にする」
美代は顔を上げた。
その表情は、晴れやかだった。
母親は黙って娘を見守っていた。久夫も、少し離れた場所から静かに立っていた。
美代は深く一礼して、墓を後にした。
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夕方、二人は実家を後にした。
駅へ向かう道を、並んで歩く。
「来てよかった」
美代が言った。
「ああ」
久夫は頷いた。
電車が入ってきた。二人は並んで乗り込んだ。 窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。美代は窓に額を当てた。長い旅が、終わった。 そんな実感が、じわじわと胸に広がっていった。
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ある日曜日の午後、美代と久夫は近くの公園を歩いていた。木々は新緑に覆われている。ベンチに座って、しばらく黙っていた。
「生きてるな、って思う」
美代が呟いた。
「こうして、ちゃんと」
久夫は何も言わなかった。ただ、隣に座っていた。風が吹いて、木々の葉が揺れた。美代は目を閉じて、深く息を吸った。胸いっぱいに、新緑の香りが広がる。
「これから、どうなるかな」
美代が尋ねた。
「わからない」
久夫は正直に答えた。
「でも、今日を生きる。それだけでいいんじゃないか」
「うん」
美代は頷いた。
「おばあちゃんが言ってた。生きている人を、大切にしてって」
「そうだな」
二人は立ち上がり、歩き始めた。特に目的地はない。ただ、前を向いて歩く。それだけだった。
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家に帰ると、美代は祖母の写真の前に立った。
以前はしまい込んでいた写真。今は、リビングの棚に飾られている。
「おばあちゃん」
心の中で、美代は呟いた。
「見ててね」
写真の中の祖母が、穏やかに微笑んでいた。久夫がリビングに入ってきた。
「夕飯、何にする?」
「何でもいいよ」
美代は振り返った。
「一緒に作ろう」
二人はキッチンに向かった。窓の外では、夕日が街を染めている。 声にならなかったさよならは、ようやく言葉になった。そして今は、日常が戻ってきた。
「ただいま」と「おかえり」。
「おはよう」と「おやすみ」。
何でもない言葉たち。でも、それが何より大切だと、今はわかる。美代は包丁を手に取った。久夫が隣で野菜を洗っている。いつもの夕暮れ。いつもの時間。それで、十分だった。
(了)




