第九話:盤上の友と、見えざる敵
財務大臣が失脚してから数週間。王都の政治地図は、リアム様を中心に、静かに、しかし確実に塗り替えられていた。私とリアム様の関係もまた、新しい日常へと移行していた。
私たちの「戦略会議」は、今や、リアム様の書斎で夜ごと開かれるのが常となっていた。
私が、ゲーム知識と現実の情報をすり合わせて分析したレポートを提出し、リアム様が、それに基づいて次の一手を決める。その傍らには、私が淹れた薬草茶と、彼の好物であるキャンディーがいつも置かれていた。
それは、まるで長年連れ添った夫婦のような、穏やかで、そして心地よい時間だった。
だが、私は知っている。最大の敵が消えた今だからこそ、本当の危機が訪れることを。
「リアム様。次の脅威は、政敵ではございません」
ある夜、私は意を決して切り出した。
「私たちの次なる敵は、あなたの、たった一人のご友人……トリスタン将軍ですわ」
リアム様の動きが、ピタリと止まった。トリスタン将軍。王国北部を守る、実直で、誰よりも名誉を重んじる軍人。そして、リアム様が幼い頃から、唯一心を許した親友。
「……どういう意味だ」
彼の声から、温度が消えた。
「財務大臣が空けた権力の座を狙う新しい派閥が、将軍を利用します。偽の書簡、巧妙に操作された状況証拠……それらを用いて、あたかもあなたが、先の財務大臣の反逆計画に裏で関与していたかのように見せかけるのです。将軍の、その曇りなき正義感とあなたへの信頼を逆手に取った、最も卑劣な罠ですわ」
ゲーム本編で、このイベントはリアム様の心を完全に破壊した。唯一信じた友からの裏切り。それが、彼の冷静な判断力を狂わせ、破滅への坂道を転がり落ちる、致命的な一歩となったのだ。
「ありえん」
リアム様は、私の「予言」を、初めて明確に、そして強く否定した。
「トリスタンが、私を疑うことなど、決してない。君の情報は、今回ばかりは間違っている」
彼の拒絶は、当然だった。これは、政治の駆け引きではない。彼の魂の、最も柔らかな部分に触れる問題なのだから。
私は、無理に説得しようとはしなかった。
「ええ、わたくしも、将軍があなたを裏切るとは思っておりません。ですが、敵は、そう仕向けてくるのです。あなたの最大の強みである、その友情の絆そのものを、攻撃してくるのですわ」
私は、一歩彼に近づき、まっすぐにその瞳を見つめた。
「ですから、彼を疑う必要はございません。ただ、敵が毒を盛る前に、友情という名の薬を、あなたが先に盛るのです」
「……薬、だと?」
「近いうちに、奥様と一緒に、晩餐会にお招きしてはいかがでしょう。宰相としてではなく、ただの旧友、リアム・ブラックウェルとして。敵が介入する前に、あなたの口から、あなたの言葉で、彼との絆を再確認なさるのです」
それは、未来の知識を使った戦略であり、同時に、一人の人間としての、純粋な願いでもあった。
リアム様は、しばらくの間、黙って私を見つめていた。彼の氷の瞳の中で、論理と感情が激しくせめぎ合っているのがわかった。
やがて、彼は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……わかった。晩餐会の手配をしよう」
その一言に、私は心の底から安堵した。彼は、私の言葉を信じたのではない。友情を守るための、最も確実な一手に、同意してくれたのだ。
私が書斎を辞す間際、リアム様の視線が、壁にかけられた一枚の絵に注がれているのに気づいた。そこに描かれているのは、まだ少年だった頃の、彼とトリスタン将軍の姿。
次の戦いの舞台は、会議室ではない。人の心の中だ。そして、そこで戦うための武器を彼に渡すのが、契約者であり、婚約者である、私の本当の役目なのだと、私は改めて胸に刻んだ。