第八話:氷の宰相のチェックメイト
南の地での勝利を携え、私とリアム様は「療養」を切り上げ、足早に王都へと帰還した。
社交界では「やはり南の水は合わなかったようだ」「あの婚約は宰相閣下にとって荷が重すぎたのでは」などと、面白おかしい噂が飛び交っている。結構なことだ。その油断こそが、私たちの最大の武器になるのだから。
案の定、私たちの最大の敵である財務大臣は、まだ何も知らずにいた。彼は、シュタイナー侯爵領で「自然災害」が発生し、侯爵が破産寸前だという報せが届くのを、今か今かと待ちわびていることだろう。
リアム様は、すぐには動かなかった。王に直接証拠を突きつけるのは、最も単純で、最も芸のない手だ。彼は、敵を社会的に、完全に抹殺するための、完璧な舞台を整え始めた。
「宰相閣下、療養中に発見した『国家の安全保障を揺るがす重大な案件』について、緊急の閣議を要請する」
その報せに、王城は騒然となった。財務大臣も、まさか自分の陰謀が露見したとは夢にも思わず、一体何事かと、いぶかしげな顔で閣議へと出席した。
婚約者として末席に座ることを許された私は、議員席の片隅から、これから始まる一方的な蹂躙劇を、胸の高鳴りを抑えながら見守っていた。
「先日、私が訪れた南方のシュタイナー領で、小麦の生育不良が確認された」
リアム様は、あくまで冷静に、淡々と切り出した。その言葉に、財務大臣が待ってましたとばかりに、悲痛な顔(もちろん、見せかけの)で立ち上がる。
「なんと、それは由々しき事態! 宰相閣下、民が飢えることのないよう、私めが責任をもって、国の穀倉から支援物資を手配いたしましょうぞ!」
――かかった。
私は、心の中で喝采を叫んだ。リアム様が仕掛けた罠に、彼は自分から飛び込んできた。
「おお、それはありがたい。あなたほど、シュタイナー領のことを心配してくださる方がいるとは、私も心強い」
リアム様はそう言うと、その表情から、すっと温度を消した。彼の両目が、獲物を捉えた捕食者のように、氷の光をたたえる。
「あなたが、それほどまでに、あの土地を『心配』なさっている理由が、よくわかりました」
次の瞬間、リアム様が提示したのは、刺客の署名入りの自白調書、私のリトマス試験紙による毒の鑑定結果、そして、財務大臣の不正な金の流れを示す、完璧な証拠の山だった。
「こ、これは、捏造だ! 私を陥れるための、悪質な罠だ!」
財務大臣は、真っ青な顔で叫ぶ。だが、彼の味方をする者は、もう誰もいなかった。これまで彼に追従していた貴族たちも、蜘蛛の子を散らすように距離をとり、自分に累が及ぶのを恐れて俯いている。
静まり返った会議室に、国王陛下の厳かな声が響き渡った。
「……財務大臣。貴様を、国家反逆罪の容疑で逮捕する。衛兵、連れて行け」
こうして、リアム様の最大の政敵は、彼の仕掛けた完璧なチェックメイトによって、血を流すこともなく、静かに盤上から消え去った。
その夜。宰相官邸の書斎は、勝利の静けさに満ちていた。
リアム様は、私をただの駒としてではなく、対等なパートナーとして、その瞳に深い信頼の色を宿して見つめていた。
「君の知識が、彼の息の根を完全に止めた。……我々は、恐ろしく相性がいいらしい」
彼はそう言うと、執務机のそばにあるティーセットから、自らの手で紅茶を淹れ、そのカップを私に差し出した。彼が、私のために、何かをしてくれたのは、これが初めてだった。その小さな行動が、どんな言葉よりも、私たちの関係の変化を物語っていた。
「申し上げたはずですわ。わたくしは、あなたの成功を確実にするための、最高の妻ですから」
私が微笑んでカップを受け取ると、彼の唇の端に、ほんのわずかな、しかし本物の笑みが浮かんだ気がした。
「……ああ。信じ始めてきたよ、エレノア」
初めて、彼は私の名を、何の肩書もつけずに呼んだ。
偽りの婚約から始まった私たちの関係は、確かな勝利と、そして、本物の絆の萌芽を手に入れたのだった。