第七話:盤上の勝利と甘い毒
黒い小瓶の蓋が開けられ、男がその中身を灌漑用水路へと注ぎ込もうとした、その瞬間。
リアム様の無言の合図と共に、闇に潜んでいた騎士たちが一斉に飛び出した。
「なっ!?」
刺客は、完全な奇襲に驚き、咄嗟に応戦しようとするが、相手は宰相閣下が率いる手練れの騎士たちだ。あっという間に取り押さえられ、その手に持っていた毒の小瓶は地面に転がった。
「証拠でもあるのか!」
捕らえられた刺客は、なおも強気に叫ぶ。その声に応えるように、私は茂みから静かに姿を現した。
「ええ、ございますわ」
私は、お手製の「リトマス試験紙」と、騎士に用意させたひしゃくを手に、冷静に事を進める。まず、毒が流される前の用水路の水を少量すくい、試験紙を浸す。――変化はない。
次に、地面に転がった毒の小瓶を拾い上げ、新しい試験紙の先を、その黒い液体にそっと浸す。
次の瞬間、羊皮紙は、まるで墨を吸い込んだかのように、瞬時に真っ黒に変色した。
「……これが、動かぬ証拠ですわね」
私の言葉と、黒く染まった試験紙を目の当たりにして、それまで半信半疑だったシュタイナー侯爵は、怒りに顔を震わせ、固く拳を握りしめた。彼の領地と民が、どれほど卑劣な危機に晒されていたかを、ようやく完全に理解したのだ。
侯爵家の地下牢で行われた尋問は、しかし、困難を極めた。刺客は口を固く閉ざし、財務大臣の名を決して明かそうとしない。リアム様の氷のような追及にも、死を覚悟したかのように耐えている。
(頑固な人……。でも、あなたの弱点は知っているのよ)
私は、リアム様の耳元にそっと囁いた。ゲーム本編では語られない、ファンブックにだけ載っていた彼のサイドストーリー。
「リアム様。彼を脅しても無駄ですわ。彼には、王都の聖ユーデ聖堂の療養所に、重い病を患う妹がいるはず。財務大臣から、その治療費を受け取る契約で、この仕事を引き受けたのです」
私の言葉に、リアム様の瞳がわずかに見開かれた。彼はすぐに尋問のやり方を変える。
「……お前の忠誠心には感服する。だが、お前がここで死に、財務大臣が失脚すれば、誰がお前の妹君の面倒を見る? 我々に協力しろ。そうすれば、妹君の治療は、この宰相ブラックウェルの名において、生涯保証しよう。彼女を、見殺しにするか、救うか。選ぶのはお前だ」
「妹」という言葉。そして、彼女の未来を保証するという申し出。それが、刺客の心の最後の砦を、粉々に打ち砕いた。
彼の目から涙が溢れ、ついに全てを自白した。財務大臣の陰謀の全貌、そして、その証拠となる裏帳簿の隠し場所まで。
その夜。
シュタイナー侯爵の書斎には、刺客の署名が入った自白調書と、押収された証拠の山が積まれていた。私たちの、最初の共同作業は、完全な勝利に終わったのだ。
「エレノア様。あなたのその知恵は、いかなる軍隊よりも頼もしい。このシュタイナー家、生涯をかけて、あなたと宰相閣下にお力添えすることをお誓いいたします」
侯爵からの、最大級の賛辞と忠誠の誓い。それは、私がこの世界で得た、最初の確かな戦果だった。
侯爵が退出した後、書斎には、私とリアム様の二人だけが残された。彼の私を見る目が、以前とは明らかに違っている。それは、もう「有用な駒」を見る目ではない。畏怖と、そして、無視できない強い興味が混じった、複雑な色をしていた。
「……君は、実に恐ろしい女性だな、エレノア嬢」
その言葉には、不思議と棘がなかった。
「婚約者様のお役に立てて、光栄ですわ」
私が微笑むと、彼はふと懐から、以前私が贈ったキャンディーを一粒取り出した。
「君の盛ってくれたこの『毒』は」
彼はそう言うと、その甘い一粒を口に放り込み、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「私が想像していたよりも、ずっと効果的なようだ」
彼の瞳の奥に宿った、ほんのわずかな熱。
それは、私たちの契約関係が、計算外の、新しいステージへと移行したことを、静かに示していた。