第五話:契約と甘い毒
宰相閣下リアム・ブラックウェルと、つい先日、王太子に婚約破棄されたばかりのエレノア・マーシャル公爵令嬢が、電撃的に婚約。
そのニュースは、翌日の王都の社交界を、まるで巨大な爆弾のように揺るがした。
サロンや夜会は、その話題で持ちきりだった。曰く、「王家に対する、宰相閣下なりの当てつけだ」「捨てられた令嬢の、見事なリベンジマッチ」「いや、あれは財務大臣派が送り込んだ、甘い罠に違いない」。
誰もが、この突拍子もないゴシップの裏にある政略的な意味を探ろうと躍起になっていた。
そんな喧騒をよそに、宰相官邸の静かな書斎では、当事者二人による、最初の「婚約者としての戦略会議」が開かれていた。
「これが、現在の王国内の勢力図だ」
リアム様は、大きな地図をテーブルに広げ、冷徹な声で説明を始めた。王太子を担ぐ王妃派、虎視眈眈と権力を狙う財務大臣派、そして、ごく少数ながらも、リアム様を支持するいくつかの貴族家。それは、本来、婚約者とはいえ、決して他人に見せることのない、彼の王国内での立ち位置を示す極秘情報だった。彼が、私を「駒」として信頼し始めた証だ。
「君の前の情報は、小競り合いに過ぎん。次は、もっと本質的な情報を要求する」
彼は、私を試すように言った。
「もちろんですわ」
私は、この日のために準備していた、次なるカードを切った。それは、ゲーム本編でも中盤の大きなイベントだった、南部の穀倉地帯を揺るがす大事件。
「二ヶ月後、南方を治めるシュタイナー侯爵の領地で、大規模な小麦の病害が発生します。ですが、それは天災ではございません。財務大臣が、穀物価格を操作し、あなたの支持基盤である侯爵家を破産させるために仕組んだ、巧妙な人災ですわ」
私は、病害を引き起こす魔術的な毒の種類、それを散布する密偵の名前、そして、決行の日付まで、正確に告げてみせた。
リアム様の表情が、険しさを増す。これは、ただの政争ではない。国の食糧事情を揺るがし、民を飢えさせる可能性のある、許されざる蛮行だ。
「……君は、一体どこでその情報を手に入れる」
彼の瞳が、鋭く私を射抜く。
「これほどの情報を、ただのスパイが掴めるはずもない」
「わたくしは、ただの、あなたの婚約者ですわ」
私は、謎めいた笑みを浮かべてみせた。
「あなたの成功を、誰よりも願っている、ただの女。……それだけでは、ご不満でしょうかしら?」
私の正体を明かす気はない。この神秘性こそが、今の私の最大の武器なのだから。
会議を終え、私が書斎を辞去しようとした時だった。私はふと足を止め、彼を振り返った。
「リアム様。少し、お顔の色が優れませんわね。働きすぎは、良い判断を鈍らせますわよ」
私は、侍女に持たせていた小さな銀の箱を、彼の机にそっと置いた。
中に入っているのは、砂糖がまぶされた、小さな琥珀色のキャンディー。ゲームのファンブックにだけ載っていた情報――彼は極度の甘党であり、過労の際には頭痛に悩まされる。そして、このキャンディーは、頭痛を和らげる薬草を練り込んだ、特製品だ。
「婚約者からの、ささやかな贈り物ですわ」
そう言い残し、私は書斎を後にした。
一人残されたリアム様は、机の上のキャンディーと、私が去った扉を、呆然と見比べていたに違いない。国家を揺るがす陰謀を予言したかと思えば、次の瞬間には、彼の体調を気遣って甘い菓子を置いていく。この女は、一体何なのだ、と。
やがて、彼はためらうように、一粒のキャンディーを口に放り込む。ほのかな甘みと、薬草の香りが、彼の張り詰めていた神経を、ほんの少しだけ、優しく解きほぐした。
それは、氷の宰相の心に投じられた、甘く、そして抗いがたい、小さな毒の一滴。
私たちの偽りの関係に、計算外の変数が生まれた瞬間だった。