第四話:盤上の駒は動いた
リアム様と「契約」を交わした日から、三日間。私は、父が用意してくれた新しい屋敷で、淑女の仮面を被りながらも、内心は嵐のような興奮と緊張に苛まれていた。
(リアム様、私の情報を信じてくださるかしら……いや、信じるとか信じないとかじゃない。あの人は、使える駒か否か、ただそれだけで判断するはず)
私は、前世の記憶と、公爵令嬢としてアクセスできる情報を総動員し、現在の政治情勢を徹底的に分析していた。ゲームの知識は絶対的なアドバンテージだ。だが、それに胡坐をかいていては、あの怜悧な宰相閣下のパートナーは務まらない。来るべき日に備え、私は自らの牙を研ぎ澄ませていた。
一方、その頃。宰相官邸の執務室で、リアム・ブラックウェルは一つの報告書に目を通していた。
「……なるほどな」
あの日、エレノア・マーシャルが口にした情報。彼は一笑に付したかった。だが、彼女の瞳に宿っていた狂気じみた確信が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼は、信頼する部下に、ノース子爵と財務大臣の金の流れを極秘に調査させていた。そして、今しがた届いた閣議の議題一覧。そこには、確かに「西部地域における穀物税の改定案」が含まれている。
リアムは、議題書の付属資料をめくった。そして、膨大な条文の、その一番奥深くに隠されていた一文を、ついに見つけ出した。エレノアが予言した、一字一句違わぬ文章を。
(……あの女、一体何者だ?)
背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。預言者か、あるいは未来から来た亡霊か。どちらにせよ、彼女は危険だ。そして、極めて――利用価値が高い。
そして、運命の閣議当日。
重厚な扉に閉ざされた会議室は、有力な貴族たちが腹の底を探り合う戦場だ。財務大臣が、人の良い笑みを浮かべてリアムに視線を送ってくる。
やがて、ノース子爵が、エレノアの予言通りに増税案を提出した。議論は滞りなく進み、採決の直前、誰もがこの法案が通るものと信じて疑わなかった、その時。
「お待ちいただきたい」
リアムの氷のような声が、その場の空気を凍りつかせた。
「興味深い提案ですな、ノース子爵。ですが、皆様に、付属資料Cの第五項、三行目にご注目いただきたい」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、その条文に隠された悪意を、冷徹なまでに論理的に暴き始めた。それが西部の貴族たちをどう刺激し、結果として誰に利が転がり込むのかを。
会議室は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。ノース子爵は顔面蒼白になり、財務大臣の人の良い仮面は、怒りと屈辱に歪んでいた。
リアム・ブラックウェルは、たった一人で、敵の仕掛けた巧妙な罠を回避しただけでなく、その罠を敵の喉元に突きつけてみせたのだ。
その日の午後。
屋敷で紅茶を飲みながら、私はそわそわと知らせを待っていた。そしてついに、宰相官邸の紋章が入った、飾り気のない馬車が私の屋敷の前に止まった。
降りてきたのは、リアム様の腹心である、表情の読めない秘書官だった。
「エレノア・マーシャル様。宰相閣下が、至急お会いしたいとのことです」
来た!
私は、歓喜で爆発しそうな心を抑えつけ、淑女の微笑みで頷いた。
再び通された宰相官邸。今度は、彼の私的な書斎だった。壁一面の書物と、古い紙と紅茶の香り。その部屋の主は、窓の外を眺めながら、静かに私を迎えた。
「……君の情報は、正確だった」
彼は、ゆっくりとこちらを振り返る。そのアイスブルーの瞳が、私という存在を分析するように、鋭く見据えていた。
「君が何者かは知らん。未来を視る魔女か、あるいは悪魔か。正直なところ、興味もない。君の能力は、私にとって『有用』だ。それだけでいい」
彼は、宣言した。
「君の提案を受け入れよう。本日付で、我々は婚約する。だが、これは契約だ。君は、私の敵を排除し、私の地位を盤石にするための情報を差し出せ。見返りに、私は、私の家名と権力による庇護を君に与えよう。これで、合意かね? マーシャル嬢」
「ええ、もちろん、喜んで」
私は、人生で最高の、勝利の笑みを浮かべてみせた。
「我が最愛の、旦那様」
こうして、私の推しを救うための、偽りの婚約生活が幕を開けたのだった。