第二話:推しに会うなら外堀から
宰相閣下の官邸は、貴族の屋敷というよりは、さながら黒い要塞だった。華美な装飾は一切なく、ただ機能性と威厳だけを追求したかのような、冷たく、そして美しい建物。ああ、まさに私の愛するリアム・ブラックウェル様そのものだわ、と私は一人、馬車の中でうっとりとため息をついた。
もちろん、正面から乗り込んで「宰相閣下にお会いしたい」などという正攻法が通じるわけがない。
案の定、パーティー用の豪奢なドレスを着た私は、門番の騎士に「アポイントメントのない訪問はお断りしております」と、鉄壁の守りで追い返された。
公爵令嬢の肩書も、ついさっき王太子に婚約破棄されたばかりの女の前では、何の意味もなさないらしい。
「ええ、ええ、想定内ですわ」
私は優雅に微笑んでみせると、あっさりと馬車を下がらせた。ふふふ、この私を誰だと思っているのかしら。前世で、このゲームの公式ファンブックからキャラクターブック、果ては限定版特典の小冊子まで、全てを読み込んだ熱狂的なファンなのよ!
私の作戦は、プランBに移行する。
『推しに会うなら、まず外堀から埋めよ』――これは、オタクの鉄則だ。
私のゲーム知識によれば、氷の宰相リアム様には、彼が唯一溺愛しているシャロットという名の妹がいる。そして、彼女の行きつけの喫茶店と、週に一度しか焼かれない「天使のくちづけ」という名の、彼女の大好物のケーキのことも、私は完全に把握している。
私は王都で最も高級な喫茶店『銀の匙』へ向かうと、有り金に物を言わせて、その日焼き上がった「天使のくちづけ」を全て買い占めた。そして、日当たりの良いテラス席で優雅にお茶を飲みながら、ターゲットの到着を待つ。
しばらくして、一人の可憐な少女が店に入ってきた。間違いない、シャロット様だ。彼女はケーキが売り切れだと知ると、この世の終わりのように肩を落とした。
チャンス!
「あら、お困りですの?」
私は、聖母のような笑みを浮かべて彼女に声をかけた。
「わたくし、少し買いすぎてしまいましたの。もしよろしければ、こちらのケーキ、召し上がりませんこと?」
私の申し出に、シャロット様はぱあっと顔を輝かせた。なんて可愛らしいのかしら。推しの妹は、もはや実の妹も同然だ。
「まあ! よろしいのですか? わたくし、このケーキが大好きで……!」
「ええ、ええ、どうぞ遠慮なさらないで」
私たちはすっかり意気投合し、一緒にお茶をすることになった。私はゲーム知識をフル活用し、彼女が好きな刺繍のパターンや、育てている花の種類といった、ピンポイントな話題で彼女の心を鷲掴みにする。シャロット様は、物知りで優しい私にすっかり懐いてくれたようだ。
お開きの時間、彼女は私の手を握って、キラキラした瞳で言った。
「エレノア様、ぜひ今度、わたくしのお屋敷に遊びにいらしてくださいませ! あなたのような素敵な方とお友達になれて、本当に嬉しいですわ!」
――ミッション『宰相閣下の妹を篭絡せよ』、コンプリート!
私は内心で勝利のガッツポーズを決めながら、淑女の笑みでその誘いを受け入れた。
父が用意してくれた新しい屋敷に戻ると、すぐにシャロット様からの正式な招待状が届いていた。私はその招待状を胸に抱きしめ、明日の決戦に備えて頭の中でリアム様のデータを再確認する。
(氷の宰相、リアム・ブラックウェル。趣味は仕事とチェス。好きな食べ物は、意外にも甘いもの。ただし、公の場では決して口にしない……)
明日、ついに、三次元の、生きて動くリアム様に会える。
私は、武者震いを抑えきれなかった。
「待っていてくださいませ、リアム様。あなたのその鉄壁の心を、このエレノアが、必ずや溶かしてみせますわ!」
推しを救うための戦いは、まだ始まったばかりなのだ。