それはたおやかな花のように
私の人生であれ以上に勇気が必要だった瞬間はない。
今日も穏やかに陽の光が降る。
齢六十を超え、生業としていた教授の職から足を洗った。
今はたまに頼まれた書評を書くくらいで、それ以外は散歩と読書に興じている。
現役時代はあっという間に過ぎた。
自身の研究に加えて数々の雑務をこなし、振り返ればこの身ひとつしかない。
人生の伴侶を得る機会はいつしか逃していた。
女子学生たちから「先生結婚しないんですか」と揶揄われた日々が懐かしい。
そんな私が或る日見かけたのはたおやかな花だった。
――失礼、彼女は歴とした人間だ。
しかし、私の目にはそう見えてならなかった。
彼女とは喫茶店の席で隣り合った仲だ。
散歩を終え文庫本を片手にモーニングを愉しんでいると、不意に声をかけられた。
「お隣よろしいですか」
「えぇ、勿論」
視線を本から外した時目に入ったのは、ほっそりとした手首とそれを彩る銀のブレスレットだった。
細い鎖が白い肌に控えめに光を落とし、その一片の美しさに心惹かれる。
導かれるように顔を上げると、そこには私より二回り程若いであろう女性が立っていた。
「ありがとうございます」
その細面の顔を穏やかに緩め、彼女は微笑む。
「……どういたしまして」
声が裏返らないようそう返すのが精一杯だった。
それから毎週水曜日の朝、彼女は私の隣に座る。
駅から距離がある店舗だから、そんなに混み合っているわけではない。
それでも、彼女は私の隣に座る。
散歩を終え、今日も私はいつもの席に座った。
この窓際の席からは外の様子がよく見えるし、コンセントも完備されている。
彼女がここに座るのは、そういった理由からかも知れない。
顔を上げると、窓の外を行き交う人々が目に入った。
これだけ沢山の人間が息衝く世界で、運命の相手に出逢える確率はいかほどだろう。
その上、その相手と結ばれることは、それこそ奇跡のようなものではないか。
珈琲を一口飲んで口を潤し――私は決意した。
「お隣よろしいですか」
聴き慣れた声がする。
顔を向けると、今日もその花は可憐に咲いていた。
「えぇ、勿論」
私の返事など知り尽くしているだろうに、彼女は今日も「ありがとうございます」と微笑む。
彼女も席に座り珈琲を一口飲んだところで、私は口を開いた。
「――よろしければ、お名前をお伺いしても?」
何度も心の中で反芻した台詞に、彼女はそっとマグカップを置く。
「――えぇ、勿論」
そう答えて、彼女はたおやかな笑みを浮かべた。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
本作は『恋愛(踏み出す瞬間)』というテーマで書いた作品です。
ピュアピュアな女子高生がもじもじしつつ憧れの先輩に……とかも考えたんですが、それだとちょっと普通かなぁ……と自分の趣味に全力振り切って書いてみました。
老いらくの恋、私は素敵だと思うんですが、いかがでしょうか。
勇気を振り絞って一歩踏み出す大学教授(定年退職後)、頑張ってほしいです!
お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。