お嬢様の作法
わたくし、名を山田花子と申します。生まれてこの方実家が少し裕福というだけで何の変哲もない普通の人生を送ってまいりました。 そうです。回転寿司ではまずマグロを、学科選択では普通科を、『ウォーリーを探せ』と『ミッケ』なら後者を選ぶ、あのわたくしです。
しかしそんな私の人生にイレギュラーが発生しました。
ご存知の通り、わたくしと同じクラスに殿方、鳴滝伸也なる人物が性別を偽って在籍していることが明らかになったのです。 一目見て女性でないことが明らかな風体をしており、にも関わらず主従関係にあると思われる有栖川さんの持つ強権により、教師ですら異議を唱えることができない有り様。
とにかくその日はつつがなく……つつがなく入学式を終え、帰路につきました。
ちょうど学園の正門辺りに差し掛かった時のことです。
何と渦中の鳴滝伸也と昇降口ですれ違ってしまったのです。 黒猫とすれ違うのは不幸の前触れ、と申します。
黒猫と鳴滝さんを一緒にするわけではないのですが、初の邂逅で仄かな凶兆を覚えていたわたくしは思わず身構えました。
何かが起こる。
そう確信を得たわたくしは身構えたまま校門への道のりを進んでいきます。
昇降口から校門までの道程はわたくしともう一人の女生徒がいるのみです。 彼女はわたくしの二十メートルほど先で肩を落としながら歩いていました。 後ろ姿ですので、気づくのが遅れましたが、彼女はどうやらクラスメイトの桂城さんらしいのです。 見るからに落ち込んでいる彼女ですが、もしや鳴滝さんとすれ違った際に何かあったのでしょうか?
直接聞いてみるなりしてみないと分かりませんのでこれ以上はただの想像にしかなりません。
他に何か気になることは――――。
――――特筆すべきところは見当たらないようでした。
しかし災難というのはいつどのような形で降りかかるか分からないものです。 せめて校門を出るまでは用心したままでいましょう。もちろん、いくら用心していたところで振り払えない火の粉などいくらでもあるものですが。
と、考えている間に校門が目前まで迫っておりました。
周囲に不審なものは見当たらず、そのままわたくしは境界線を越えました。
よし!
わたくしは思わずガッツポーズをしてしまいそうでした。
もちろん桂花女学園の淑女たるわたくしがそのようなはしたない真似をするわけもございません。
背筋を正して興奮を抑えながら、モデルさながらのウォーキングで歩き出します。 ちょうどその時でした。 わたくしの数メートル先で歩道を歩く女生徒の横で怪しげなバンがスピードを落としました。 ほどなくして車は動きを止め、足を止めていた彼女の前で完全に停車。
まるで女生徒に何か用があるかのようで。
その推測は不幸にも当たっていたようでした。
突如として後部座席のドアが開くと、車内からスーツを着た七三分けの男が飛び出てきました。 その手にはおよそ現代日本ではお目にかかれない、”刀”が握られており、わたくしと女生徒の視線を釘付けに。 男は虚を突かれて身動きの取れない女生徒を慣れた手つきで車の中に引きずりこみます。 女生徒は突然のことに反応が遅れて、されるがまま。あるいは恐怖で動けなかったのでしょうか。
再び車外に飛び出てくると、今度はわたくしの姿に目を留めました。
何ですかあれは。模造刀でしょうか?仮に模造刀だとして、なぜ桂花女学院の門前で所持している必要が?
分かりません。
ただ一つ分かっていることがあるとすれば。
思考に縛られて動けずにいたわたくしの腕を男が掴みます。 そのまま引っ張られて、わたくしは車内に連れ込まれました。
わたくしは鳴滝伸也の災いから逃れられなかったということです。
そこまで思考が及ぶやいなや、私の脳は気絶することを選びました。 決して恐怖から失神したわけではありません。 戦略的撤退と呼ばれるものです。 気絶は生存フラグです。
さて、このように迅速かつ的確な判断により、最善の一手を選んだ私が次に目を覚ましたのは古ぼけた廃ビルの一室でした。何やら騒がしいということで、閉じていた目を開いてみれば、見知らぬ場所におり、手足は手錠で繋がれている。これはあれです、誘拐です。というかなぜか身体の節々が痛みます。 一か所だけならまだしも、全身の至る場所が、です。
目覚めたわたくしに次々に襲い来る事実の奔流は留まるところを知らず、次なる情報を提示します。 どうやら、私以外にも同じ境遇の方々がいるようでした。一人は正門付近で攫われた少女。 身動きの取れない彼女は今呆気にとられた表情である方向に視線を向けています。
そのある方向にいる方が残りのもう一人。そう、鳴滝さんです。 しかし、鳴滝さんはわたくしたちと状態が違うようでした。彼の両足を縛っていたであろう手錠はブレスレットと化しており、その両の足で直立しています。 今や彼を縛る物は後ろ手に繋がれている手錠のみでした。
……そもそも、どういう経緯であの屈強な男が誘拐されるに至ったのでしょうか。相手は日本刀を持った二人組、人質も二人抱えていたはずですし、助けに入ろうとしたところを捕らえられた、といったところでしょうか?しかし、あのただならぬ出で立ちから察するに、その程度のことで後れを取るようにも見えない。それともそれはただの見当違いで、鳴滝さんは実はそれほど強くもない……?
という可能性は後から考えれば馬鹿馬鹿しいことこの上ないものだったことが、程なくして思い知らされることになります。
鳴滝さんは何かを待っているようで、一心不乱に部屋の出口を見つめていました。一瞬何事かと思案しましたが、先程からやかましい程に響いている男たちの声が近づいてきていることに気づいて得心がいきました。 そしてその声の主たちがちょうど出口から顔を覗かせようというタイミングで彼は動きを見せました。
前傾姿勢を取って、右足を軸足に地面を踏みしめ、左膝を前方に突き出します。 そうして地面から得られる反発力と不自由なままの全身を用いた連動により、彼の身体は重力から解放され宙を舞うことになります。 ただ宙を舞うだけに飽き足らず、この運動は爆発的な推進力を誇っているように見えました。彼は曲げていた左ひざを伸ばし、そのままの勢いで”ターゲット”を狙撃します。右足のつま先から左足のつま先まで壮麗な流線形を描くその様はさながら熟練のバレリーナのような身のこなしでした。
まず顔を見せたのがわたくしが戦略的撤退を講じる原因となったあの七三分けの男でした。 男が何かに気づいて室内に振り向こうかというタイミング。
第一射が命中いたしました。 無残の一言に尽きるでしょう。
彼は何が起こったのかすら分からないまま頭部を撃ちぬかれ、それだけにとどまらず出口の外にあった壁に打ちつけられて、二度目の打撃を被ることになりました。背後の壁はやはりというべきか彼の後頭部の形にくりぬかれています。
鳴滝さんは左足で彼の顔を軽く押し込んだ反作用でもって、宙に浮いたままだったその体をようやく地べたへと降ろしました。
すると鳴滝さんの靴で隠れていた男の被った被害の全貌が露になります。 下劣なニヤケ面はどこへやら、呆けた表情に、自慢の白い歯も要インプラントの状態と化しています。 この有様では命すら危ういと言えるでしょう。 鳴滝さんは地面へと降り立った衝撃を両の膝で受け止めるかのように一瞬しゃがんだ状態になります。
その時、彼の背後に回り込んで奇襲を仕掛ける影がありました。 ここからではよく見えませんが、どうやら先程倒された男と瓜二つの身なりをしているようです。 男は、両手で抜き身の刀を持って、今まさに右上段から振りかぶらんとするところです。
刀が鳴滝さんの首元に命中する刹那、彼は肩越しに軽く振り返って得物を一瞥したように見えました。 鳴滝さんはその一瞬で、それも視界の利かないはずの背後の脅威を見切ったとでもいうのでしょうか。
果たしてその見立ては正鵠を得ていたようで、『危ない』と言いかけて、その言葉は喉元で音にもならず吐く息となって消えていきました。