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ひとりぼっちの登校 1

 起きた瞬間、風邪だ、と思った。


 必死の思いで、ベッドから這いずり出ると、棚を漁って体温計を探り当てる。ひんやりとした測定器に怖気を感じながら、ぼんやりすること十秒。ピピピという通知音で腕を開き、アナログ表示が見える高さまで掲げる。


『39.0』。


 表示にはそう書かれてあった。


 内線のある場所まで這っていくと、学校への連絡と消化によい食べ物を出すよう使用人に頼んでおく。朝飯はそのうち届くだろう。


 気怠い身体を引きずって風呂桶とタオルを用意。部屋に備え付けてあるシンクで桶に水を溜め、タオルを濡らす。這う這うの体でベッドに戻ると、仰向けに寝転がる。咳をするたびに飛び跳ねる肩を制御して掛け布団を整える。携えていたタオルを額に乗せて、ベッド脇のナイトテーブルへと手を伸ばす。手探りで探り当てたリモコンを操作してテレビをつけた。布団を肩まで被って、ベッドの天蓋を眺めながらテレビから流れ出る音声に聞き入る。


『――次のニュースはこちら、現在桂花市内で頻発している連続強盗事件です。事件の背後に半グレ集団の影があるのではないかと囁かれています。また、暴力団との繋がりについても噂されており、事件の収束は一向に日の目を見ることがありません。本日は半グレや暴力団に詳しい――』


「入るぞ」


 その声でわたしは目を開く。どうやらテレビの音声をBGMに寝落ちしてしまっていたようだ。カーペット越しだというのによく響く不躾な足音がわたしの耳朶を打った。目を横へ動かすと、伸也の顔が覗く。


「玲香、遅刻するぞ」


 ずんぐりとした動作でわたしの顔を覗き込む伸也。ベッドの上では額に濡れタオルを乗せたわたしが苦しそうに寝息を立てている。


 ――その光景が見えているはずだ。


「おい、学校には行かないのか」


 まるで休日の早朝に起こしに来る子供のようだ。赤ら顔に青筋を立てて声を発した。


「見ての通り風邪引いてるの」


 伸也は相変わらずの仏頂面で重ねて疑問をぶつける。


「どうして風邪を引いてるんだ」


 即座に返答を浴びせた。


「あんたが車のドア破壊したせいで強風と豪雨浴びながら下校することになった話する?」


「そうか。ん、乾いてるな。タオルを濡らしてやろう」


 言いながら伸也はわたしの額へと手を伸ばす。タオルが取り去られて、ひんやりとした空気が地肌に吸い付く。桶の中にタオルを浸す音、次いで絞る音と水の弾ける音とが心地よく響く。それらに混じって時折、ビリッという音が聞こえてくるのは気のせいだと思いたい。そうこうしているうちに伸也の顔が視界に移りこんで、再びわたしの額へと手が伸びてきた――。


「めっちゃ乾いてるんですけど」


 額に乗せられたタオルは水分が飛んで、カラカラだった。


「すまん。少し絞り過ぎたらしい」


 タオルは武骨な手によってまたもや桶の中に放り込まれる。何度目かの浮き沈みののち、タオルは額へと戻ってくる。


「びしょ濡れなんだけど」

 

 タオルから漏れ出た雫が頭皮を伝って、流れ落ちていく。


「すまん。もっと絞るべきだった」


 伸也はタオルを絞る。


 わたしの頭上で。


 ぼたぼたと滴る雫が肌を叩いている。眼球に降ってきて、わたしは目を閉じた。瞼の裏には、昨日、車内に降り注いできた雨粒がよみがえってくる。


「もういい」


 わたしは伸也の手を押しのけて、背を向けるように寝返りを打つ。


「他に何かできることはあるか?」


「ない」


「じゃあ俺も家にいた方がいいか?」


 咳き込んでから返答する。


「知らないわよ、そんなこと。登校したけりゃすればいいじゃない」


「誰がお前の護衛をするんだ」


「新しく臨時の警備雇うから」


「じゃあ看病は誰が――」


 伸也を遮って玲香が大声を上げる。


「あーーー!!もう!!あんたの声聞いてると頭が痛くなんのよ!!やたらと低いくせに変に通る声してるから!!!!」


 わたしは声を張り上げて続ける。


「この間の件で崩壊した教室の修理費は全部、こっちで受け持つことになったわよね!ペナルティでわたしの小遣いが全部吹っ飛んだわ!」


 頭痛が走って眉間にしわが寄る。


「あんたといるとろくなことがない!!!この疫病神!!!!」


 布団を頭から被って片手だけを出す。


「悪霊退散!!!」


 指さした先には出入り口がある。


「分かった。じゃあ、行ってくる。何かあったら電話よこせよ」


 わたしは出していた手をひらひらと振って伸也を追い返した。


 扉の閉じる音を布団越しに聞きつけると、大きくため息をつく。


「だるい」


 何もかもが。


 熱が苦しくて立ち上がるのもままならない、というのが一つ。ナイトテーブルに置いてあるスマホに手を伸ばすことすら億劫になっている。


 ただそれ以上にわたしの気力をそぐものが学校にはあった。


 入学式の後の一件以降、伸也とわたしに不躾な視線が浴びせられることが多くなった。通学路で、校門で、教室で、食堂で、図書室で。元より伸也に関しては注目を集めて当然だったので、予想通り。


 しかし、先日の件で相当程度生徒の不満が溜まっているのか、雇い主であるわたしに抗議の視線が投げかけられることが多くなった。それは決しておかしなこととは言えない。校内に潜んでいた不審者を摘発したとはいえ、生徒の安全を顧みない危険な行動に、校舎の一部を倒壊させてしまう破壊行為、いち生徒がやったのであれば、問答無用で退学の処分に付されてもおかしくはない。


 そこを有栖川家のコネとカネでもって強引にねじ伏せ、問題の数々をなかったことにしているのだから、口には出さずとも無言の抗議はあってしかるべきなのだ。


「そう、そこが問題なのよね……」


 わたしはぼんやりする頭を枕の上で転がす。

 

 知っての通り、桂花女学院はお嬢様学園である。


 政界、経済界、芸能界などの著名人の子女がこぞって門をたたく名門校。当然のことながらここに入学する子女はただ勉強だけをしに来ているわけではない。


 学び舎を同じくするクラスメイトとのコネ作り、という打算的な側面もあるということだ。家柄がよければ、周囲に人だかりが出来るだろうし、将来有望だと思われれば、今のうちに繋がりを作っておこう、と思われる。


 この他にも思惑は様々、しかしどの生徒も腹に一物据えているのは間違いなく、教室で笑顔のあの子が心の底から笑っているとは限らない、ということである。


 わたしはこの腹の探り合いが本当に苦手だった。小さなころから社交場には出入りしていたため、この手の本音と建て前の使い分けはお手の物なのだが、実際にできることと、それを楽しくやれるかどうかは別問題で。今までであればパーティの間だけ一時的に感受性を殺して笑顔に徹していれば、それでことは済んだものが、桂花女学院の生徒として通うようになった今は常在戦場、日ごろから気を張っていなければならないこの状況に辟易しているのだった。

 

 風邪を引いたのも伸也だけが原因というわけではあるまい。


「……」

 

 学園生活もまだ始まったばかりだが、あの能天気さに救われることもある。護衛としての役割は全うしている、ということだろうか。


「あいつ、大丈夫なんだろうな……」


 本心をひた隠して利を追い求めるお嬢様方と、思ったことをそのまま口に出して、そして行動に移してしまう直情的な伸也。相性は水と油だろう。果たして一人で行かせて本当に良かったのか。あの欲望渦巻く直方体の箱の中に、たった一人放り込んで上手くやっていけるのだろうか。

 

 今からでも後を追って一緒に登校しようか。

 

 いや、いや。駄目だ駄目だ。もうあいつのことを考えるのはやめだ。


 布団を深くかぶり直して、枕に顔をうずめる。

 

 何が悲しくて追い払った疫病神のことを考えなくてはならないのか。こういう時は嫌なことは忘れてさっさと寝るに限る。


『――次のニュースはこちらです。名門のお嬢様学園にて女装した大男が――』


 わたしは機敏な動きでチャンネルを取り上げて、テレビの電源を落とす。


 マットレスに倒れこんで気絶するように眠りに落ちていった。

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