学級崩壊 3
失っていた意識を取り戻した?
否。
膝をつくと立て直しが難しいと考えた?
否。
敗北を認めるのは彼のプライドが許さなかった?
否。
否。
否。
両腕を力なく垂らしたまま、腰は深く落とし、両足の筋肉は限界まで引き絞っています。
矢がつがえられ、弓もしなりきって。後は弦を離すだけです。
彼は静止するために用いていた筋力を今度は辿ってきた軌跡を巻き戻すために使用しました。当然の摂理として放たれた力は彼の全身を持ち上げます。一つ付言しておくなら、その力が鳴滝伸也によるものだということです。
彼の解放した脚力は自重を持ち上げるだけに飽き足らず、頭上の偽物にもお釣りをくれて寄こします。
気づけば偽物の身体は宙を舞い、天井にその飛躍を阻止されていました。彼の衝突した天井には頭をぶつけた跡が残っており、こちらも上の階への影響が懸念されます。偽物が中空を落下する刹那、鳴滝さんは天井に頭をぶつけない程度の高さまで跳躍し、”準備”を始めました。
まず首を、次に両腕を、胴体を、それぞれ順番に時計回りにひねり始めます。それはさながら上半身で醸成される力の渦を徐々に下半身へと伝えていくようです。
力は淀みません。一か所に留まることがないため、常に移ろい続けている必要があります。絶え間ない力の流れ、これを意のままに操ることは至難の業。それは取りも直さず自身の身体を自在に操ることと同義であるためです。適切な部位に、適切なタイミングで、適切な力を加える。これができる人間を運動神経がいいと我々は評します。では鳴滝さんの場合はどうか――。
一回転を済ませた鳴滝さんは再び宙の偽物と相対します。彼は下半身まで到達した力を左腿へ伝達。力はふくらはぎを通り、足の付け根へと至り。そしてついに、剣の切っ先のごとく鋭く伸ばされたつま先に達し、”準備”はすべて整いました。
全てが図られたかのような――いいえ、図られたタイミングでした。
偽物の落下速度、落下中の体位、自身の位置、回転速度、そして打ち据える部位。等々、それら全てを一瞬のうちに考慮に入れ、そして求めた結果という一点に収束するよう”準備”したのです。鳴滝さんの実力は運動神経がいいなどというレベルをとうに超えておりました。
パンッ、という音がしました。
これは後々になって思い返してみて、ようやく分かったのですが、この音は音速を超えた時に発生する。
いわゆるソニックブームだったのではないかと思い至りました。
偽物の身体は吹っ飛ばされる過程で道中の机と教卓をなぎ倒し、気が付けば黒板を背にしてうなだれています。ひびの入った黒板から欠片が落ちて、隣の教室の様子が垣間見えました。教師も生徒も見当たらないことから、この教室での騒ぎを受けて、とうに避難を済ませた後なのでしょう。
地面に降り立った鳴滝さんはスカートの裾が気になるのか折り目を整えてひと払い。
『お疲れさまでした』。
と、そう口に出して言おうとしたとき、ひしゃげた教卓と黒板にもたれかかっていた偽物が動きを見せました。
遅れて鳴滝さんも気づきます。
偽物は未だ鳴滝さんの姿をしたままです。埃と瓦礫にまみれた身体を立ち上がらせると、傍にある机をひっつかんでこちらに投擲。一直線に飛んでくるその机は軌道を見れば明らかなように、わたくしを狙ったもののようです。両腕でつたない防御姿勢をとり、目を閉じようとしたその時、頼もしくもあり、恐ろしくもあるその広い背中がわたくしの前に立ちはだかると。
左腕で机を雑に薙ぎ払いました。砕けて粉となった机の破片が舞い散ります。続けて、鉄製の四脚部分が割れたガラス窓を通り抜け、欄干に引っかかったかと思うと、やはりそのまま階下へと落ちていきました。
言うまでもなく、鳴滝さんがわたくしを守って下さったのです。
しかし、お礼を言う暇もありません。矢継ぎ早に机が飛んできて同じようなプロセスが繰り返されます。
何度目かの繰り返しののち、突然鳴滝さんが前傾姿勢を取りました。そこまで姿勢を傾かせるかというほどの前傾で、下がった彼の頭上から向こう側の視界が望めます。
黒板の前に立っている偽物はその手にいくつもの鉄筋を握って、応戦の構えを見せていました。如何な鋼鉄の筋肉を持っている鳴滝さんと言えど、本物の鋼鉄を弾けるはずもありません。
あんなものが急所に刺さればひとたまりもないはずです。仮に刺さらなかったとて、打撲くらいのダメージは負うはず。一体どうなさるつもりなのでしょうか。
などというわたくしの心配を余所に、鳴滝さんはひと跳びで偽物へと迫ります。教室の端から端まで、およそ十メートル。その十メートルを稲妻の如き速度で駆ける。
偽物も驚愕に目を見張ったように見えました。虚を突かれた彼は握っていた鉄筋を活かすことが出来ずに、鳴滝さんの接近を許してしまいます。
金属のぶつかり合う音がいたしました。どうやら偽物は鳴滝さんの攻撃を鉄筋で受け止めたようです。
が、やはりと言うべきか勢いを受け止めきれずに黒板を突き破って隣の教室へと吹き飛ばされました。
ガラガラと音を立てて崩れる黒板。壁が崩れて随分見晴らしがよくなってしまいました。
攻撃を終えた鳴滝さんは教室と教室との境目に降り立って、こちらに振り返ります。
その手には、やはり何も握られていません……。
分からないことがあります。
一方は鉄筋、これで金属音が響いたのだと分かります。
ですが、もう一方は……。
頭でした。
鳴滝さんはスタートダッシュの神速に乗せて頭突きを繰り出しておりました。
頭突きと鉄筋。
解せません。
一体どうすれば、鉄とカルシウムが衝突して、あのような甲高い音が響くのでしょうか?それとも鳴滝さんの頭蓋は鉄製なのでしょうか?サイボーグなのでしょうか?
疑問は尽きません。
現われては山積していく疑問を前に事態は悪化の一途を辿ることになります。
「仕方ない」
ふと、耳に飛び込んでくる声がありました。
わたしと鳴滝さんは声の主をすぐさま、偽物であると特定いたします。隣の教室の偽物はひしゃげた机の数々に背を横たえるように倒れています。
「一人で対処するのはやめにしよう」
そう言って、偽物が立ち上がると再びガラスの割れる音が教室中を揺らしたのです。




