間違えることのいいわけ
文章を書いていると、自身でも気づいていなかった思わぬ本音が飛び出て来ることがある。
会話の流れで書いただけの、主人公の吐いた「正しくない自分を否定する」台詞を目にして、私は「あっ」と思う。私は正しくあらねばならない、と頑なに自らを制限していたのだ、と気づく。「書く」ことを通して、すっかり諸々の制約を解放できたつもりになっていたが、なかなかどうして、一筋縄ではいかないらしい。この期に及んで、所持し続けていた「正しさ」への盲信は、根深く私に居座っていた。
正しくあろうとするのはよい心がけであるとは思うが、自分は正しい、と信じてしまうとそれ以上の変化は望めなくなる。自己の正しさにしがみつき、その証明に躍起になるだけで、自分を疑うということができなくなる。一方的なものの見方で一箇所に留まり、葛藤しないということはようするに思考停止、死を意味する。それこそが私が最も避けたいと考えていることのうちのひとつではないか。
そもそも正しいも間違っているも、誰も決めることはできない。肩の力を抜いて、間違う自分のことも許す、間違えた、と思われたとしてもそれも含めて愛しく思う、そういうことを学ぶための道のりだった。瞬時に飲み込み実践できない自分をつい責めたくなるが、それこそそれをよしとしよう。私は間違う自由がある。
何度も何度も繰り返す。わかったような気になってひとつもわかっていない。いくら自分で正しい認定していようとも、私はちっとも正しくない。そんな自分に出会ってあはは、と笑えた時、私はとても楽しい気分になる。
つらつらと書き連ねる文章の中で、早くそんな自分と出会ってみたい。




