ずっと続くかと思っていた歳月には
それからというもの、ぼくはたびたび、オオヘビさまの元に通うようになりました。
通う、と言っても月に一度、行くかどうかというところでした。
仕事は不規則だったし、たまの休みにも動けないほど疲れがたまっていることもあるし、気づくと三ヶ月以上間が空いたこともありました。
それでも、いつも行くたびにオオヘビさまはウロの中にいて、呼びかけるとすぐに鼻先をのぞかせてくれました。
始めの頃、なんと呼んでいいのか分からず、「オオヘビさま」と声をかけたらことのほか喜んでくれたので、いつの間にかそう呼ぶようになっていたのです。
話に飢えていたのか、オオヘビさまはぼくの話すことを何でもとても喜んで聴いてくれました。
子ども時代に行った駄菓子屋のこと、高校時代に勇気を出して告白した女子のこと、近所に咲いていた花のこと、自転車を盗まれたこと、飼っていた猫がいなくなったこと……どんなことでも同じように、ほうほう、と相槌をうって、アメダマ、とはどんなものなのだい? その子はどんな声だったのか? 花の色は何色だったのだ? ジテンシャというのはヒトの履く靴とどうちがうのか? おまえさんはその時どれだけ泣いたのかね? などと事細かに尋ねてくるのでした。
答えにくいことでぼくがことばを濁すと、まあよい、とあんがいあっさりと話題を変えてくれる気遣いもみせてくれました。
オオヘビさまの昔話も聴かせてもらいました。
こんな話は面白くないだろう、と語ってくれるのは遠い遠い昔、まだオオヘビさまがふつうの蛇で、野山にはほとんど家もなく田畑すらなく、もちろん人さえもほんのわずかだった頃のお話もありました。
ぼくがいち大事だと思ったのは、もっと遠くの山里にいた頃、すでにオオヘビだったオオヘビさまを祀るため、神社が建てられてから数百年後の話でした。
なんでも『ばっさい』のために神社が他所に移されることになり、裏山の洞窟に棲んでいたオオヘビさまは丸裸になった山肌を抜けて、更に山の奥に逃げ出したのだそうです。その時は数名の人間に見られて大騒ぎになったのですが「尾を降ったら岩が崩れて、きやつらは静まってしまった」のだとか。
そんな大変なこともあったのに、オオヘビさまはぼくの話の方がよほど面白い、と次々に話を所望するのです。
「植木鉢にその、あぼかどとかの種を植えてそれからどうなったと申したか?」
面白いのが、オオヘビさまのところに訪ねて行く日はたいがい雨に降られるのです。行きには晴れ渡っていて、天気予報でもあまり心配はなさそうだという時でさえ、なぜか、山の中、木のウロに着く頃、オオヘビさまと過ごす頃には雨になっている、そんなことが続きました。
いつもたいがい雨の中、ぼくは話し、オオヘビさまが話し、なんとなく沈黙が訪れた時にふたりで森の音を聴くともなしに聴いていました。
森から聴こえるのは、葉を叩く雨の音、地を流れるちいさな沢のせせらぎ、少し遠くの滝の音、もっと奥から響く雨雲のささやき、ひかえめな虫たちの歌……
そんな日々でした。
ふとぼくが尋ねたことがあります。
「オオヘビさま、いつも同じところでこうやって森の音を聴いていて……特に雨の音なんて、いつもいつも同じなのに、たいくつにならないんですか?」
しゅう、とひかえめな音が漏れました。笑ったのでしょうか。
ちろちろと舌先を遊ばせて、オオヘビさまが答えました。
「森からの音もそうだが、雨の音は、いつ聞いてもまったく異なるのだよ」
「そうなの?」
「そうさのぅ……」少し考えているように舌先だけが震え、それからまた声がしました。
「それは心を打つ歌と似ている。ひとつとして同じ歌がないように、雨音にもひとつとして同じものはないのさ」
「歌、ですか」
だから私は雨の音が好きなのだ、と。オオヘビさまは相変わらずオオヘビらしからぬかすかな声でそう答えたのでした。
「歌、どんな時にどんな歌を聴いたんですか?」
「あまり覚えておらぬが……」
だいぶたってから、か細い声が、ゆったりとした旋律にのって流れてきました。
いつの時代のものなのか、さっぱり見当はつきませんでしたが、それでもぼくはつぎつぎと繰り出されるふしぎな歌に耳をかたむけ、音によりかかるようにして雨の森の中座っていました。
懐かしいのは歌の旋律ばかりではなく、その声も。
ずっと続くと思っていた歳月には、終わりがあるものです。
役場に出かけた時、ぼくは大きなポスターにふと目をやりました。
そこには、深い森を抱えた山を少し高い空から写したものが背景になっていて、その上から元気な文字でこう書かれていました。
「〇〇縦断高速道路 ××年春前線開通」
帰ってからなんだか気になって、ぼくは地図を確認してみて、思わず凍りつきました。
オオヘビさまの住む、あの森、あの場所がまさに、道路の通過地点と重なっていたのです。