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おまえさん、なにか聞かせておくれ

 何を見たか、誰にも話しませんでした。

 そこまで親しい人はいないし、山に入った理由すら話す相手はいなかったし、ぼくは次第に、あれは夢だったのかもしれない、と思うようになりました。

 しかし、どうにも気になるのは確かです。

 それからしばらくして、意を決してまた、ぼくはあの山に向かいました。


 山の道はわずかに踏み固められ、ところどころ木漏れ日が躍るほかは、他に何の気配もありません。鳥すら遠慮して歌わないような森の中を、ぼくは進みます。

 それでもたまに人が通るのでしょう。ひしゃげたビール缶とか、しるしにしたのだろう赤いビニルテープの残骸とか、草陰にみることもありました。

 ウロに近いあたりで、案外新しそうな小冊子と、ウォーキングシューズの片方が投げ出されるように落ちていました。どちらにも濡れて泥がこすったような跡がついています。

 小冊子には『失敗しない山歩き』とあり、ぼくはつい、くすりとちいさな笑い声を立ててしまいました。この冊子と靴を片方失くしただけで、ずいぶんと失敗してるよな、と他人の心配をして、急に我に返りました。

 いつの間にかまた、あのウロの前に立っていたのです。

 おそるおそる、中をのぞいてみました。しん、と静まり返っていますが確かに、何かの気配があります。においはなく、ただあたりを覆う森の深い香りがウロの中にまで漂っているだけのようでした、それでも、何かべつの、音のない音みたいな、空気ではない空気がウロの奥には確かに存在していました。

 中に歩を進める勇気もないのに、ぼくはつい「こんにちは」と呼びかけていました。

 街なかに歩く集金の人みたいだな、と思いながらもまた、こんにちは、とくり返し、何度か声をかけました、しかし返事はありません。

 木々の間の空はいつの間にかまたどんよりと黒い雲に覆われつつあります。

 やはり帰ろう、と背を向けたとたん

「また、おまえさんか」

 かすかな声が背後から響きました。

 振り返ると、あの鋼色の鼻先がすぐ胸元にありました。

「せっかく眠っていたのに」

「すみません……」

 責めている口調ではありませんでしたが、つい、謝ってしまいました。恐怖はいつの間にか消えていました。

「まあいいさ、ところで」

 鼻先でゆっくりと押し出され、ぼくはウロの外に出ていました。オオヘビは今では首をすべてウロの外に伸ばし、わずかに頭をあげました。

「今日こそはなにか、おもしろい話でもしてくれるのか」

「おもしろい話?」

「ああそうさ」

 そこで気がつきました。オオヘビの目はすっかり白く濁っています。何も見えていないようでした。

「ずっとここで雨の音を聞く、森のにおいをかぐ、たまに近くの餌をとる、他にすることもない私に、何か話でもしてくれるのかと思ったのさ。なんせ」

 さぁ、とかすかな音が森の奥からゆっくりと迫ってきました。また雨のようです。

 とがった舌先のかたほうがまた、ぼくの頬に触れました。

「おまえさんは、食えそうもないからね」

「なぜですか」

 オオヘビがまた、ゆっくりとウロの中に戻っていくのにつれて、僕もまた、ウロの方に近づきます。

 雨がしのげる場所まで入った時、暗がりの中にウォーキングシューズのもう片方が転がっているのに気づきました。

「生きる気が無くなってここまで来た、そんなヤツを食ったら腹をこわす」

 答えられず、ぼくは下を向いたまま落ちている靴底の模様をみていました。

「さて」

 ウロの中で、オオヘビはすっかり落ち着いたようです。人ならさしずめ、囲炉裏ばたにどっしとり腰をすえたところでしょうか。

「おまえさん、なにか聞かせておくれ」


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