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夢には夢を

おわわわわっわわわわわわわっわわわわわわw

 ——さん。

 ——さん? 木材さん。木材さんはついさっき、崩れてしまったではないか。まさか、崩れていなかったとでも言うのだろうか。

 ——お客さん。

 ——オキャクサン。おきゃくさん。お客さん?

「……お客さん。お客さん!」

 肩を激しく揺らされ、その青年はどこか遠く離れた深い場所から引き揚げられ、浅瀬に打ち上げられる。浅瀬で息を吹き返した男は、零コンマ一秒程度で深く沈んだ意識を捨て置き、浅瀬のための意識を取り戻す。その意識に彼は「目を開けなければならない」と伝えられ、急ぎ開眼する。眼前には、恰幅の良い、ワイ・シャツと制帽を身にまとった中年男性が広がっている。

「お客さん。終点。終点だよ」

 その光景は言う。甲は鈍重に思えて仕方のない頭で記憶と、理性を辿る。

 なんだか、ひどく珍妙な夢—–あれは夢だったのだろうか。夢を見ていたのか、僕は。夢を見ていたような。そんな気がしている。どんな夢だったんだろう。衣服に滲む汗くらいしか、もはやその痕跡は見当たらない。

 それで、僕はどこに行こうとしていたのか。周囲を見る限り——ここで初めて周囲を見渡している——ここはバスの車内のようだ。即ち、バスでどこかに行こうとしていた。では、僕の目的地は?

「……湘南台駅?」

 甲は漏らすように呟く。

「そう、湘南台駅。早く降りてください、回送だから」

 眼前の中年男性はあまりに合理化された口調で通告する。

 無理もないことだ。甲は自身の深い眠りを省みていた。


 謝罪して運賃を払い降車口を飛び出せば、甲に風が吹き荒れる。甲の横顔に、胴体側部に、挨拶代わりの突撃を敢行している風。六月の顔をしていない。良くて四月、悪くて二月から迷い込んでしまったのだろう。そんな迷子の風が、寂しいのか、嬉しいのか、甲も世界も吹き荒らす。

 有難迷惑な挨拶を一撃いただいて、甲の体内は急遽冷やされる。冷やされたことによる自然発生的な身震いと共に、冷やされたという実感が、寝ぼけて滲んでいた視界と思考とをクリアにする。空冷式じゃあるまいし。そんな愚痴も聞かぬふり、風は依然、しつこく声をかけてくる。

 風の方向を見る。真っ直ぐ伸びる道路の先は、深く紅に染まっている。浮かぶ雲はその紅を後光として、自身の墨色を華美に彩っている。紅の対極は既に夜の化粧を始めていて、群青でも、また紫でもある。そのグラデーションたるや。風情をご覧とでも言うように、空は色という色を用意している。今は六月だから、だいたい午後六時を回ったところだろうか。

 やがて風の方角から、ヂーゼル・エンジンの地を揺らす音がいくつも聴こえてくる。バスだ。湘南台駅ロータリー目掛けて、バスは一目散に走って、そして定められた位置に綺麗に停車する。二台同時に降車ドアを開けば、中から大量の人間が吐き出されて、ロータリーはあっという間に人間の熱気で満ちていく。老若男女問わず——何処と無く若者の多いような気はするけれど——そこは人間の場所だった。

 甲も人流に付いていく。黒々とした川は、巨大パチンコ屋の壁一面に輝くネオンを浴びて、緑にも、橙にも光る。そして大きく口を開けた駅に住み込まれて、地表の下へと消えていく。駅の口元まで進んでいくと足元は自動的に滑り出し、甲も地表の下へと消えていく。

 湘南台駅の体内——即ち地下自由通路——はまた、どこまでも広大で、どこまでも活気に溢れていた。

 滲む汗の消えていくような気がした。


——————


 甲はホームに立っていた。他の街に用があった。

 何だか駅名標が気になって、わざわざ十数メートル歩いて確認した。駅名標は「湘南台」と、当たり前のことを述べている。

 整列位置に並んで、屋根の間から空を見上げる。少しばかりホームに歩いていただけだというのに、既に空は太陽を失っている。しかし新月であるというのに、天蓋は自ら僅かな光を帯びている。深縹とでも言うのだろうか、紺色をベースとして、どことなく緑と赤の混ぜられたような、何とも不可思議の色をしている。黒でないのは、都会の定めだろうか。

「まもなく、列車が到着します」

 そんなアナウンスとともに、至って面白みのない電車が至って平凡な甲高い音を立てて入ってくる。冬の匂いを持った風は列車に煽られ、余計に力を増していく。顔は凍えるような心地である。が、慣れてしまった。衣服の恩恵だろうか、もはや暖かみすら覚える。

 列車は凡庸な停車を見せる。数多の人を吐き、数多の人を吸う。吸われながら、甲はちらと行き先表示を見る。

 藤沢。


——————


 数駅に停車し、発車し、暗くも何とも無い神奈川の夜を抜けて、列車は終点・藤沢駅に停車する。

 列車の嘔吐に飲み込まれ、甲はホームへと弾き飛ばされる。屋根に覆われ、LEDに照らされ目のくらむほど眩いホームを、改札目掛けて歩く。丁度帰宅ラッシュで、駅構内は列車を降りる人、乗る人、両者が入り乱れ、渦を為している。皆、季節外れの服装で控えている。中にはロング・コートを仕込んでいるような人も。

 終点よろしく、四本のレールはこの駅で行き止まり、彼らの未来は寸断されている。そしてその先には改札。改札を抜ければそこには、コンクリートに覆われた広大な駅舎。上も左も右も下も果てしなく、コンクリートが剥き出しの殺風景な駅の顔をしている。突き当りに大きく——人間が横に十五人は並べそうなほど大きく——口を構える何かしらの店舗を中心として、街灯と人間とが激しく交差し、入り乱れている。

 その店舗の前、即ち突き当りを右に折れ、出口へと急ぐ。出口までは幾許も無かった。出口を抜ければ、そこには夜が待っていた。粗雑に多量に立ち並ぶ雑居ビルと、忙しく行き交っている自動車。そのどこにも海は無い。海側の出口だと謂うのにひどく興醒めな街は、夜空の深縹と雑居ビルの仄青い光とを放ちて、人々を襲う。海は無いのに海は在ると、言いたげな街でもあった。

 甲は頬に感触を覚えて、右手で触る。何かが掌に捕まったのを覚える。右手を離して掌を見れば、そこには花びらがあった。


 それで甲は夢をすべて思い出してしまい、腹に蘇る懐かしの苦悶と海に沈む哀れな窒息を、この掌に浮かぶ藤色に重ねて、

「いったい、あの夢はなんだったんだろう?」

 と呟くのであった。




 藤はその後も、末永く彼と共に在ったと、伝えられている。

「ところで近い日に、一つの新しい構成員は離れた」

「それは私を不快にさせます。近いの若い人たちは十分に勇気だではないため、貴方は私を困らせる」

 エエ本当に、困ったことだワ。

owatta

Otawa

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