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まつぼつくり

イヤだワ。

「藤になりたいのか?」

 君の声がして、僕は目を上げた。

 ここはふぢ沢。藤と海と黒とが、天下を三分する地。藤と海とが対峙する地を、その上から闇は睨み続ける。僕はいつの間にかしゃがんでいて、水の触る感触が足を包む。少し冷たい。

 海のほうに目を向ければ、すぐ近くに君の足が見えた。どこまでも続く静寂の波を背に、君は軽やかな調子で口上する。君はいつも、口上の達人だった。そして君の足元、僕の側には、オオカミの彼が居た。眠っているのだろうか、彼は丸くなり、大きな茶色の毛玉のようになっている。依然、波は押し寄せているのだが、幸いにも、彼の鼻にはかからない。気づけば浜の砂も露出している。引き潮のようだ。

「藤となるか、藤をなすか。その二択しかない。それで藤となるのをご所望であれば、簡単だ」

 そう言って君は腕を伸ばし、藤を指差す。海に対するところには、鉄骨に絡まる数多の藤。空気に溶けて消えてしまいそうなほどに儚い薄紫の花々が、簾のように、そして雨のように、驛舎に巻き付いて、驛舎を厳しく抱きしめて離さない。

 君は腕を下ろす。そのまま足元の彼を起こしてやる。オオカミの彼は、眠いのであろう、ゆっくりと目を開き、十秒ほど瞬きを繰り返した後、にわかに立ち上がって身体を振るう。水しぶきを周囲に撒き続ける。雨を起こしてしまったらしい。やがて、落ち着いたのか、僕と君との顔を、交互にまじまじと見つめ始める。

 君はまた腕を上げ、また藤の方向へと持っていく。指で藤を指向して、君は言った。

「藤となるのであれば、簡単だ。まずこの子と一緒に、あの花々の足元まで行く。次にこう言う。私も藤となる。私も藤にしてください。最後に匂いを分けてもらう。すれば君も、藤となる」

 君はそのままオオカミの彼を見つめて、藤の方へ行け、というように手を動かす。膝に届く程度の茶色の彼は、分かっているのかいないのか、そのまま、確かにあちらへと歩き出す。藤の真下で、彼は止まる。

 僕にはそれがどうにも寂しくって、海の方を向き直す。そして君に問う。

「じゃあ、藤をなすには?」

 途端に君は腕を下に移動し、僕の右腕を掴む。そして僕は立ち上がる。立ち上がることを強いられる。無理やり、立たされる。しゃがんでいたせいで、足はたくさんの水を吸っていて、それが一気に流れ落ちる。重さで足元を掬われそうになっても、君は僕の腕をしっかり掴んで、離さない。安定したところで、君は速やかに腕を離す。そして僕の肩を、どん、と強く叩く。

「なにすん——」

 遥か彼方に君を睨んだ。しかし君はどこにも居なかった。

 藤の方を見返した。オオカミも、どこにも居なかった。


——————

 

「それは否定された、貴方の中に獏を」

 甲は暗闇の中に居た。眼前には木材さんが居る——しかし。甲は四肢ともに自由の身にあった。文字列は相変わらず百二十と指示しているが、甲は十字架に縛られることもないし、また木の根すら舞っていない。ただ、薄汚い太い木の幹と甲が、その空間に存在しているに過ぎなかった。

「貴方は私によって私を見るを求めません。貴方に動くことは可能を意味ます」

 漆黒の中を音が縦横無尽に飛び交う。甲の耳には入らない。


——————


 甲はふぢ沢にいた。広大な駅舎を抜け、藤の接待を抜け、浜へ。

 誰も居ない。オオカミの彼も君も、どこにも。ただ押し寄せる波が何層もの絹となって、甲の足に覆い被さるくらい。

 そのうちの一枚をすくい取る。透明だ。色という色が無い。まるで掴んでいないかのように透き通っていて、世界は綺麗に見通されている。しかし、間違いなく甲はそれを掴んでいた。触感が、物体の存在を知らしめている。厚みすら感じられない布であるというのに、それは確かに存在していた。

 甲は色なき絹を身体にまとって、海を見た。青い。淡く微かに灯る青が、甲の目には確かに映っている。青は音を立てて行き、帰り、衣擦れの音が空間じゅうにこだまする。ところどころ、布の織り合わせが悪いのであろうか、白く皺となって表面に浮かび上がっている。そして最も地上に近い栄誉ある絹は、どこにも光など無いのに、静かに輝きを返している。

 甲はまとった布を見遣る。これを何十にも何百にも、数億にも重なれば、このような静かな色が浮かび上がるのだろうか。甲は深く、海という名の織物を見つめている。

 甲はそのまま、織物に歩を進める。足を衣に沈めれば、刺すような感触が体内を襲う。ひどく冷たい。絹の集合体は温度さえ持っていた。足から侵食したそれは、膝を抜け、腰を抜け、腹を抜け、胸を抜け、頬を抜け、目を抜けて、脳髄にまで達する。

 しかし止まらず、甲は進む。進めば進むほど、その冷酷は程度を増していく。足は冷感を超越して、痺れを訴える。そして新たに寒冷に侵された地帯は、脳にその痛烈さをひどく訴えかける。その陳情を脳は抱え込み、脳の発する寒冷情報は何倍にも何十倍にも膨れ上がる。その報告で、肺の中まで凍る。

 それでも甲は進む。やがて頭も絹の中に覆われる。頭本体が寒さに包まれ、思考が鈍る。甲は進む。視界は良好。息も続いている。だから甲は進む。海の青と砂の白とに包まれて。

 無論、息は続かない。幾層にも渡る絹は地上の空気を遮断してしまっていて、甲の沈む世界との接触を許可しなかった。故に甲は息を吸うことが出来ない。体内に、寒冷と麻痺に加え、むせ返るような倦怠が加わる。まるでしぼむ風船のように、ありとあらゆる体内機構から空気は失われていく。体表が内側へと縮小していく。縮小を止めよう、体内に空気を取り入れようと、肉体は自ら空気を求め肺を動かす。空気を入れることによって、体内と体外の気圧に均衡をもたらし、人間としての皮を維持しよう、という魂胆だ。当然のことながら何も入らない。倦怠と気圧の渇望はやがて焦燥へと変化する。

 寒冷と麻痺と焦燥と窒息の中で、甲は可笑しいまでの苦しさを見る。腸を取り出されたときの、あの昇るような痛みとは異なる、肉体を内側から食い散らかす苦しさ。甲は苦しみに内側から食い散らかされて、あらゆるものを失っていく。願い。愛。憧憬。過去。彼。祈り。君。絶望。豪奢。松。思考と感性と、それの他にはすべて、窒息と寒冷に奪われ消えてしまった。それでも甲は、思考と感性とだけは、離さなかった。

 息が出来ない。感覚が無い。痛い。苦しい。内蔵がすべて口から脱げてしまいそうなほど。甲は進む。

 やがて甲は青さに支配された空間の中で、紫を見た。白から生えるでも、青に浮かぶでもない。ただ、漂っていた。もう何もかも失われていた。ただ思考と感性だけが甲の中には、微かに、朧げながら宿っていた。故に甲は右手を伸ばした。その紫に。

 手を開き、紫を収め、閉じる。関節が叫び声を上げてなお、紫は求められていた。


——————


「貴方は私を見ます。それは百八十を残します。」

 甲は暗闇の中に居た。眼前には脂ぎっていて茶色に鈍い光を放つ、枝の絶たれた幹がすくっと一本、立っている。木材さん。そして甲は二本の足で、どことも分からぬ黒の地面の上に立っていた。何に縛り上げられることもなかった。

「私は貴方の獏を否定する」

 音によって、甲の意識が向けられることは無かった。何かが手に握られている。それはたいそう魅力的であった。

 甲は右手を開いた。その手中には——藤があった。一房の、藤の花が。

 甲は藤の花を一枚、ゆっくりと取った。そして木材さんの眼前に歩いていって、木材さんに投げた。

 木材さんは音もなく、崩れて果てた。

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