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ゆかしの

Puedo

 腸は続くよ どこまでも。

 自らの腹より放たれた白蛇の紛い物は留まるところを知らず、いつの間にか木材さんの間近まで来ている。血と腸の色が混ざり合って見事な紅白を奏でており、なんとも目出度いことであるか。その祝福にも関わらず、木材さんが動くことはない。当然である。木なのだから。

 甲は虚ろな意識でそのようなことを思う。そして、甲の中の誰かが口を動かす。

「微妙かな」

 文字列は、このように。

「貴方は私を見ます。それは一を残します。」

 そして、木材さんはまた音を放つ。

「貴方は油を注がれることを求める」


——————


 甲は、駅舎に居た。

 ふと怖くなって、甲は下に目を遣る。自らの身体を観察する。手。足。胸。腹。背。腰。腿。足。そして靴。下に目を向けたまま、甲は柔らかく溜息を吐く。怪我はない。

 今度は周囲を見渡す。前も後ろも左も右も。誰も居ない。無人だ。後ろに向いてみる。ホームの部分。汽車すら居ない。線路の部分は水に沈んで、光を乱反射させている。四本の線路に挟まれた二つのホームは屋根すら無く、小高い鉄板が、遠くどこまでも続いている。

 左を見る。自動車の三台ほどの距離を置いて、咲き誇る花が在る。鉄骨に絡みつき、鉄の色を無くして淡紫が一面に広がっている。それは藤であった。鉄骨で構成されている駅舎を、藤が覆い隠して色に変えてしまっている。

 右も同様。前も——前には自動車の十台ほど入るであろう距離は確保されているものの——同様。上も同様。本来であれば鉄骨から空が覗いていたのであろう。しかし藤に隠されてしまっているので、何も見えない。ただ、色だけが主張する。光すら入っていないはずなのに、その若紫は艶やかである。

 そして下を見る。下には、水。波を立てて水が右往左往し、甲の足をなぞる。何の感覚も無いが、水は確かにそこに在る。

 ここはふぢ沢であった。


——————


 いつだっただろうか。いくら記憶の中をかき回しても思い出せない。しかしこの場所には見覚えがある。突き当りを右に折れる。足元の看板は木で出来ていたのか、真っ二つに折れていて、水に浸って死んでいる。藤も巻き付いている。水に沈んでいるというのに藤は元気で、水の青の中に混ざり合って、花の色は一層濃い。

 眼前には矢張り、海が広がっている。没して爽やかに水の色を放つ砂浜。果てなく続く砂浜。

 海を背にする。今度は対になるかのように、ふぢ澤驛の鉄骨がどこまでも果てしなく続く。それを藤が埋め尽くす。どれもこれも、同じだ。

 藤は咲き誇り、鉄骨は覆われ、海は広く、砂浜は海の中に若干沈み、踝のほどにまで水は迫っている。空は見通せぬほど真っ黒で、海は光を帯びて青く。波のささやきは遠く青く聞こえている。そんな景色。


 足元にふわりとした、温かい感触を覚える。下を見る。膝の高さほどに、耳をピンと張り、尻尾をぶんぶん振り、茶色の毛をまとって悠然と四本脚で立つ生物が、胴体を甲の足に押し付けている。彼が動く度、水は音を立てる。柔らかく。

 —–ああ、この子。甲は水を台にして着座する。この子の頭に手を回す。ああ、やっぱり。鋭い牙と凛々しい目つき。オオカミだ。ニホンオオカミの子。いつだったか、会った。と、思う。忘れてしまったけれど。藤を背にしているからだろうか、くすんだ毛は目立って見える。

 そのまま手を首元に寄せる。そのオオカミはピンと張っていた耳を垂らし、口を緩ませ、目を細め、頭を上向きにする。その首元をかいてやる。オオカミは耳を鳴らす。尻尾は余計に動く。かいてやるたび、オオカミの温度は伝わってきて、甲の胸に届く。首からちらりと覗く下腹部を見ると、どうやら男の子らしい。

 こんなところに、ニホンオオカミ。海辺になんて住んでいるのかしら。いったいどうしたんだろう。

 彼は濡れるのも構わず仰向けになって、何かを待っている。何かを察して、甲は腹部をワシャワシャと撫でる。柔らかい。なんて柔らかいんだろう。甲の腕が前後するに従って、腹も前後する。毛も前後する。水面と同じくらいに浮かぶ腹のウェーブで、小さい高潮が周囲に沸き起こる。腹だけではない。足も動く。甲の腕の躍動に併せて、なぜだか、足も動く。腹が撫でられるその度、足も前後する。その足もまた、高潮を起こす。これがもっと大きいものであったなら、きっと自然災害であっただろう。彼の周りは波でいっぱいだ。それが楽しいのか。彼の息は余計に大きくなっている。首をずっとこちらに向けて。

 空は真っ黒だというのに、彼は黄金色であった。水の温度は無かったのかもしれない。


 しかし彼はその姿勢のまま、首を別の方向に向けた。海の、甲の居る方面とは異なる方向。甲もそちらの方向を見た。

 二本の足で、何かが立っている。遠くのほうに居た。影のようになっていて、見えないほど遠く。あんなところまで砂浜が続いているのだろうか。あまりに遠いけれど、確かに二本足の生物であった。幽霊?

 そして徐々に近づいてくる。歩いて。かすかに波紋が見える。実体はあるらしい。歩いていて実体を伴っているということは、幽霊ではないらしい。じゃあ猿か人間か。それ以上のことは分からない。

 ニホンオオカミの彼はどう反応する? 海の方から目を離し、彼の方を見る。彼はずっと凝視している。牙を出さずに。腹を丸出しにして口を開けたまま、その方向をぼんやりと見つめている。

「楽しいかい?」

 後ろから声がした。甲は思わず、振り返る。


——————


「貴方は私を見ます。それは百八十を残します。」

「え?」

 眼前には文字列が居た。例の文字列。上に目線を反らせば、太く筋の浮かんだ茶色の幹。木材さん。周囲を見渡せば、暗闇。手足の痛みに下を見れば、十字架に磔の自身の肉体。黄土の紐——と表現するには太く硬い「何か」——で縛られている。指がより細い「何か」で十字架に結び付けられており、手を開いた状態で固定されている。

 ここには誰も居ない。ついさっきまで居たような気がしていた誰かも、どこにも居ない。ここには何もない。ただ木材さんと、なんだろう、この、宙に浮遊している、木材さんと同じ色と表層をしたものは。そう、木の根。これらが在るのみ。

「……あの、ここはどこでしょうか?」

 甲は唇を滑らせて穏やかに問う。刹那、木の根が蠢き出す。蛇の活動を見ているかのように、音も感情もなく。躍動のうちに、不明であった先端が覗く。木の根の先端は、親指ほどあろうか。そして、よく、尖っている。

 その先端は掌の前で、掌と数十センチの間隔を保持して、直角の状態で停止した。

 どこからともなく音がした。

「おめでとうございます。貴方は獏を殺さなければならない可能性がある」

 やがて釘は打ち込まれた。

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