かな川
エナドリ、極めて有効に働く場合とそうでない場合とに分類できるが、いったい何故なんでしょうかね。精神的な問題かしら。
また。またこの場所に、私は戻ってきた。戻ってきてしまった。いや、初めからこの場所に、私は居たのだろうか。ただ眠っていただけで、あのスーパーも、オオカミも、すべて夢の中で揺らめくだけの灯火であったのか?
甲は問いかける。自らに。何度も何度も。何度も何度も問いかけたところで、事実は変わらない。
十字架に縛られ、身動き一つ取れない。手足を縛っているのは、木の根のようなもの。手足を忠実に締め上げていて、脳を痺れされるような鈍い痛みが通う。眼前にはかすかに光る、すさんだ太い幹が立ちすくむだけ。その木材さんの背後には何もない。上にも左にも、右にも、あまつさえ下にも、何もない。何も見えない。
ただ、真っ暗だ。記憶のある限りでは、確か曼荼羅模様がきらぎらしく咲いていたように思われる。しかし今は何も無い。ただ黒い。黒だけが、全面に広がっている。見えるものは、眼前の木材さんと、掘られている文字列のみ。
「貴方は私を見ます。それは百二十を残します。」
百二十。一体何の数字だ。
「百二十。一体何の数字でしょう」
甲は礼儀正しく質問する。声は奥底まで溶けて消えた。そして誰も答えない。以前は饒舌に語っていたはずの木材さんも、だんまり。
「百二十。一体何の数字でしょう」
「百二十。一体何の数字でしょう」
「百二十。一体何の数字でしょう」
「百二十。一体何の数字でしょう」
「百二十。一体何の数字でしょう」
甲は繰り返す。至って真摯に。紳士に。礼儀正しく。相手を尊重するように。すると、反応を得た。矢張り、無感情に。
「貴方は自らを考えさせることを求められます」
そして手足はさらに厳しく締め上げられる。鬱血と痛覚が混ざり合う。腕の痺れが喉を締め上げる。息は拒む。
痛苦に悶えて、思わず目を閉じる。数秒。たった数秒で、何者かに瞼は掴まれる。柔らかく、しかし確かに。上のものは上に、下のものは下に。開かれる。
「私は貴方は眠ることを許さないことを思います」
手足を縛る根から、新しい根が分離して誕生している。この根は中を自由に舞って、楽しげに踊っている。主観ではない。楽しいと、その根が語っているのだ。声なくして。ああ、そうかい。どおりで。
イニシエイション。
「貴方は私を見ます。それは百十九を残します。」
文字列も踊った。
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有史、痛苦の継続が美酒をもたらすということは極めて広く知られている。嘆かわしいほどの痛みと苦しみと悲しみはやがて脳機能を低下させ、自我の境界を薄め、時間の認識、空間の認識、そして矜持の認識はすべて酩酊の中に消え去る。
甲もまた、悲嘆の美酒に酔っていた。目は常に開かれている。根によって開かれるのだから自然、開かれているべきである。そして、何かに絶え間なく眼球の躍動を捧げている。開かれているのだから自然、何かを見つめて続けているべきである。しかし甲は何も覚えていなかった。
甲はふと、我に返った。我に返って、周囲に目を遣った。黒々として光の見えない世界。眼前のほのかに醜悪な木材さん。刻みつけられた文字列。
「貴方は私を見ます。それは十一を残します。」
十一。減っている。何を意味しているんだろう。甲は酔い醒めの脳で自我と思考する。この数字は。
二秒、思考。
そして左から爆撃。
「貴方は素晴らしいことをします」
「貴方は素晴らしいことをします」
「貴方は素晴らしいことをします」
いくつもの音。大きな音が折り重なって、爆風が沸き起こる。耳の奥の何かの揺れる心地がする。眼球の奥底に反響する。思考は恐れ慄き退散する。木材さんの根も、僅かに動く。手足の束縛の少し緩んだ気がした。逃れられるほどではないにせよ。
瞬間甲は左に顔と身体を向ける。血のほとばしる自らの手はある。可哀想に。だが些細なこと。その先に、また何かが在る。遥かな暗闇であったはずのそこには、またほのかに何かが輝いている。蛍が巨大化して人間の大きさとなり、かつ光は妨げられて微弱なものとなっている。そのような光。
目を細めて眺める。凝視する。熱視線を送る。ぢっと見ていると、またも音は響く。耳と目と根を揺らす何かが、確かに左側には座している。
「貴方は素晴らしいことをします」
「貴方は素晴らしいことをします」
「貴方は素晴らしいことをします」
見えた。そこには、木。木。木。木。木。幾重にも幾重にも、木。数は——どのくらいであろうか。朧げで正しくは判別できないが、恐らく数十に渡るものであろう。甲の眼前に凛座する木材さんと同じように、幹だけ取り残された哀れな木々が、何十も立ち竦んでいる。
どうやら幹は、木材さんと同様だ。茶色のように見える。いや。木材さんより、少し色は薄いか? 木材さんは茶褐色に色塗られているが、この木々はどこか黄色を織り交ぜたかのように淡い。木材さんの放つようなあやしさも、この木々には無い。そういえば、幹もなんだか細いように思える。あまりに遠いので、分からないけれど。
「貴方は素晴らしいことをします」
「貴方は素晴らしいことをします」
「貴方は素晴らしいことをします」
またも爆風。耳に入る。耳の奥の何か——恐らく鼓膜——の、皮膚を引っ張るような感覚。皮膚からの離脱を図っているのだろうか。耳は徐々に悲鳴を上げつつあり、脳もまたその悲鳴に耐えかねて、焼かれるような痛みとなって押し寄せる。
ふと気になって、甲は緩んだ足で十字架を叩いた。とん。のびやかな木の音がする。ああ、音は聞こえているようだ。耳は裂けつつあるというのに、音は認識できる。珍妙たるや。甲の心は俄に踊り出す。
「貴方は素晴らしいことをするべきです、私は思う」
ヴギウギのリズムに併せてまた異なる音がしめやかに響く。ああ、これは木材さんの音。甲もまた思う。しかし。素晴らしいこととは、いったいなんだろう?
質問しようと思って、甲は思い出した。そう。先の質疑において、私の手足を激しく締め上げられていたこと。このような状況下で、私は防衛本能を働かせることが生物として適正な行動であることを思います。そして、こうも言われた。貴方は自らを考えさせることを求められます、と。では、貴方は自らを考えさせなければならないでしょう。
「素晴らしいことって、なんだろう?」
甲は自らを考えさせる。周囲は暗闇。周囲には木々。前に木材さんと、左に木々。木材さんには手足を切断されつつあり、周囲の木々の爆撃に晒され、耳は飛び出しかね、眼球は干魃を起こしている。木々は何かに誘い、木材さんは何かを促し、私は地獄に堕ち、曼荼羅は閉じ、幽体は同一なものであり、私は逃れ難く、この痛苦は未来永劫続くように思われ、ニホンオオカミは愛らしく、獏は無く、猫もまた愛らしい。つまり、ここでは猫であり、猫はまた世界のうちの95%を占めるべきであり、そして人類はまた猫との共存——即ち維摩経の講読が求められている。
それこそが、素晴らしいこと。甲は決意を固める。その救いは動かされつつあるように。
「にゃあ」
甲は鳴く。猫——人類を導く異邦人——に最も近しいように、心を込めて。小さくも儚く、そして大仰に。
木々は途端に崩れ落ちる。示し合わせたらしく、左に在る数多の幹がゴムのように歪曲し、ぐにゃりと曲がって下にむいている。そして下腹部に、ステッキを強く押し付けられたような鈍い圧迫感を感じる。
下に目を遣る。興味深いことに、木材さんの根が腹を割いていた。腸が流れ落ちている。真っ白だ。体表をくすぐって可笑しい。甲の表情筋は思わず緩む。そしてつぶやく。腹から流れる鮮血と、人間ホルモンと共に。
ああ、つまらない。
腸は白いと謂うけれど、実際のところはどうなんでしょうか。私は見たいと思わないので……。
でも白いほうが有り難いですね。